第38回 仲良くなれそうな人がいたら、仲良くなりたいです【ターニャさん】

第38回 仲良くなれそうな人がいたら、仲良くなりたいです【ターニャさん】

2021.8.03 update.

横道誠(よこみち・まこと) イメージ

横道誠(よこみち・まこと)

1979年生まれ。京都府立大学の准教授で、専門はドイツ文学研究・比較文化研究。子どものころから「稀代の変人」として、生きづらさに苦しむ。能力の凸凹(でこぼこ)が激しかったが、研究能力に秀でていたため、長年医学的な診断を受けずにいた。だが40歳のときに二次障害を起こし、41歳でついにASD(自閉スペクトラム症)とADHD(注意欠如・多動症)の診断を受ける。
今年5月に上梓した当事者研究の本(ほぼ自伝?)の『みんな水の中』(シリーズケアをひらく、医学書院)が初の単著単行本。

Twitterアカウント:
https://twitter.com/macoto_y(研究者・著者として)
https://twitter.com/macoto_1(自助グループ主催者として)

 

ターニャさんは33歳、大阪在住。広汎性発達障害と双極性障害の診断を受けている。

 

3歳から水泳を、4歳からクラシックバレエを習った。バレエでは振り付けを早くに覚えることができたが、友だちと話ができなかった。『ピーター・パン』のフック船長を演じた。小さいころから大のお母さんっ子だった。水泳を8歳のときに、バレエを12歳のときにやめた。以来、疲れやすくなった。

 

小学生のころ、成績は良かった。テレビドラマ『ガラスの仮面』の真似をして、机に四つん這いになって狼少女になりきった。2年生のときに対人関係への違和感を抱いた。「何ヘラヘラしてんの、気持ち悪い」と言われて、傷ついた。塾の宿題をサボりがちだった。目立つグループに入っていたが、仲間外れにされた。空間認識が苦手で、足の指をあちこちにぶつけながら生活した。

 

中学校は国立大学の附属中学校に入学。国語、英語、生物が得意だった。自宅から片道50分かかり、通うのに疲れはてて、休日に友だちから遊びに誘われても断った。1年生のときにいじめられた。2年生のときにクラス替えがあって、あるグループに入ったが、無理やり入れてもらったため、なじめなかった。やがて不登校になった。

 

それから、中学のあいだはずっと不登校。私立高校を受験し、合格したが、10日くらいでまた不登校になった。1年後に退学し、通信制の高校に通った。体育の時間に服を着替えたが、ジャージを忘れていて、ミニスカートを穿いたままで授業に参加し、友達からツッコミを入れられた。

 

16歳のときに不安が募り、全般性不安障害と診断された。気分を落ちつけるための薬を飲みはじめた。18歳になってもターニャさんは大好きなお母さんの気を引きたかった。自室の窓から外側へとぶらさがって、母を心配させようとする。「なぜか、もし落ちても軽く足を怪我するくらいだろうと思ってました」。だが自宅は8階にあった。飲んでいた薬で酩酊していたらしい。いま思えば躁転していたとも考える。

 

映画『メアリー・ポピンズ』で、傘をパラシュート代わりにして、ヒロインが飛ぶ場面を見たことがあった。それを真似て傘を開いて手にした。しかし花台にぶら下がった瞬間、それがボキッと折れて、ターニャさんは地上まで転落した。開いていた傘のおかげで一命を取りとめた。

 

整形外科で手術をしたあと、同じ病院の精神科に入った。足が動かなくなったこと、感覚がなくなったことに気づかなかったが、主治医はじっと待った。2か月が経ってもターニャさんが事態を理解できなかったため、「もう歩けません」と伝えられた。ターニャさんは、胸から下はほとんど感覚がなく、胴体や両足を動かせない車椅子ユーザーになった。看護師に暴力を振るうようになり、リハビリを真面目に受けず、「わがままにしていました」。リハビリ病院に転院させてもらえなくなった。19歳のときに、別の病院で発達障害の診断を受けた。

 

20歳になって退院。自宅で療養し、23歳になると、自立生活訓練センターに4か月ほど入所した。ほかの車椅子ユーザーたちとの交流が生まれた。大阪脊髄損傷者協会に入って、さまざまな人と交流をしたが、多くの車椅子ユーザーは資格の取得に熱心である等、向上心が高く、ターニャさんとは意識のズレがあった。「車椅子という共通点があっても定型発達の人たちとは、話が合いませんでした」。

 

センターで自立訓練が進んだが、つらくなって精神科の閉鎖病棟に1か月入院した。オランザピンを飲み始め、のちにエビリファイに変えた。家に戻り、ヘルパーに助けてもらいながら生活するようになった。現在もそのような生活を続けている。

38.jpg

25歳のときから発達障害の自助グループに繋がった。芦屋で開催されている「関西ほっとサロン」に参加するようになった。「でも、どうしたら会話できるのか分からない。せっかく声を掛けていただいても、「はい」や「そうです」を言うだけ」。話そうとすると、緊張した。しかし何度か通っているうちに慣れ、現在までにかなり改善している。同年代の発達障害者たちと親睦を深めた。

 

2016年初頭から2017年末まで、自助会で知りあった男性と交際に発展した。「すごくたくさんのところに連れて行ってくれて。私の記憶力が悪いのを理解してくれて、記憶に残らないなら記録を残そうって、写真をいっぱい撮ってくれました」。だが、相手はすぐに機嫌悪くなる。付き合いはじめて1か月くらいで、「あれ?」と思うようになった。ギクシャクして、関係は破綻した。

 

2017年、29歳のときに、精神科の主治医に「私の診断名はなんですか」と尋ねると、「広汎性発達障害と双極性障害だろうね」との返答。いつから双極性障害を患っていたのか分からないが、転落するより前の16歳のころには、すでに躁転したことがあった。自助グループとの関わりを深め、DDAC(発達障害をもつ大人の会)のピアリーダー研修にも参加した。

 

2018年末から2019年夏まで、就労移行支援事業所LITALICOワークスに通った。精神科の主治医は働くことに賛成ではなかったが、「訓練だけなら」と許された。しかし、躁転して働けなくなった。

 

子どものころから感じていた疲れが、よりひどくなったと感じている。「脊髄損傷になってひどくなったのか、精神疾患のせいなのか分からないのですが、私は働けません」。

 

「どうやってストレス発散していますか」と尋ねると「よく寝ること」と答えてくれた。「趣味って言えるものがそんななくて。英語、韓国語、フランス語をやったことがあって、ドイツ語や中国語をやろうとしたこともあるけど、すぐに飽きてしまうんです」。「音楽を聞くのは好きです。特に宇多田ヒカルの「BLUE」と「Making Love」」。

 

車椅子での生活は、当然ながら不自由が多いという。着替えをする場合、夏は15分、冬は30分かかる。入浴は毎回2時間を要する。トイレは過活動膀胱の治療薬を飲んでいても、1時間半に1回は行かないとならない。もっと頻繁に行かなくてはならないときは、間隔が10分のときさえあります。しかし、外出への意欲は高いわけではない。「一緒にいる人が行きたいなら私も行く、という場合がほとんど。自分からどこかに行きたいのではなくて。母が北海道に行きたいって言ったら、私も行きたい。将来の夫が行きたいと行ったら、私も行きたい」。

 

自助グループでは、自分がいても良いという安心感が得られるというターニャさん。自助会で出会った人と自助会の外で仲良くするのは良くないという意見もあるが、「私は仲良くなれそうな人がいたら、仲良くなりたいです」。

 

ターニャさんに今後の目標を尋ねると、「人をなごませる力が欲しいです」と答えてくれた。「このインタビューで、ターニャさんにとてもなごまされましたよ」と私が言うと、嬉しそうに微笑んでいた。

 

 

(横道誠「発達界隈通信!」第38回了)

 

本連載のアーカイブはこちら

 

 

 

みんな水の中 イメージ

みんな水の中

脳の多様性とはこのことか!
ASD(自閉スペクトラム症)とADHD(注意欠如・多動症)を診断された大学教員は、彼をとりまく世界の不思議を語りはじめた。何もかもがゆらめき、ぼんやりとした水の中で《地獄行きのタイムマシン》に乗せられる。その一方で「発達障害」の先人たちの研究を渉猟し、仲間と語り合い、翻訳に没頭する。「そこまで書かなくても」と心配になる赤裸々な告白と、ちょっと乗り切れないユーモアの日々を活写した、かつてない当事者研究。

詳細はこちら

トラックバック

http://igs-kankan.com/mt/mt-tb.cgi/1343

コメント

このページのトップへ