第29回 自分が得意だと思える分野で頑張れば、世間に貢献できる人になれます【しばちゅうさん】

第29回 自分が得意だと思える分野で頑張れば、世間に貢献できる人になれます【しばちゅうさん】

2021.7.08 update.

横道誠(よこみち・まこと) イメージ

横道誠(よこみち・まこと)

1979年生まれ。京都府立大学の准教授で、専門はドイツ文学研究・比較文化研究。子どものころから「稀代の変人」として、生きづらさに苦しむ。能力の凸凹(でこぼこ)が激しかったが、研究能力に秀でていたため、長年医学的な診断を受けずにいた。だが40歳のときに二次障害を起こし、41歳でついにASD(自閉スペクトラム症)とADHD(注意欠如・多動症)の診断を受ける。
今年5月に上梓した当事者研究の本(ほぼ自伝?)の『みんな水の中』(シリーズケアをひらく、医学書院)が初の単著単行本。

Twitterアカウント:
https://twitter.com/macoto_y(研究者・著者として)
https://twitter.com/macoto_1(自助グループ主催者として)

 
しばちゅうさんは23歳、京都在住。ADHD(注意欠如・多動症)、ASD(自閉スペクトラム症)、軽度知的障害、鬱病の診断を受けている。
 
幼稚園のころ、ほかの園児と関わろうとしない子どもだった。ひとりで遊具、おもちゃで遊び、泥団子を作るのに夢中になった。
 
小学校低学年のころ、友だちとサッカーをやっているときに、ボールで頭を強く打ったのがきっかけで休憩時間にスポーツをするのがイヤになり、中学年からは教室で本を読むようになった。「ハリー・ポッター」シリーズ、「ダレン・シャン」シリーズなどの児童向けファンタジー小説を好んだ。図鑑など視覚的な魅力に富んだ本を読むのも好きだった。特に「海の生物」。「学校内の引きこもりみたいな感じで生活していました」。
 
高学年になると、体育館にクライミングウォールを作った教師がいた。以来、「クライミング部」に入った。休憩時間は本を読み、放課後になるとクライミング。小学生が終わるまで、からかわれることはあっても、いじめらしいいじめは経験しなかった、
 
中学生になり、ワンダーフォーゲル部に入った。看板と異なり、おもな活動がクライミングだったのが理由。しかも強豪校だった。全国のさまざまな場所に遠征するため、ほかの部活動に比べるとお金がかかると説明された。親に資金の捻出を頼みこんで、入部した。
 
1年生のころ、人間関係をうまく営めず、本格的ないじめにあった。消しゴムを投げつけられたり、罵声を浴びせられたりした。2日ほど学校を休んだあと、親に連れられて登校。この子はいじめに遭っている、と親が訴えた。校内で一騒動が起こり、いじめは厳しく取りしまられるようになった。それなのに、2年生まで孤立した。
 
京都の総合体育大会の中学生クライミング部門で、学校としても個人としても優勝を経験。音楽ではUVERworldや初音ミクが好きになり、いまでもファンだと語る。
 
工業高校に入学。自分を変えるために、コミュニケーションが得意な人間になろうと考え、心理的な抵抗を押して軽音部に入った。ヴォーカルを担当したが歌詞がなかなか覚えられず、音程は合っていても歌えなかった。バンドメンバーとの関係が悪くなり、ギター担当に転向した。
 
中学に比べると、全般的な人間関係は改善していた。だが孤立しがちな傾向は変わらない。「あたりさわりなく関ろうとがんばりました」。クライミングも続け、近畿ユース大会の学年別で3位に入賞した。全国大会に出場。高校卒業後はクライミングに関わる仕事をしたいと考えた。
 
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就職活動に有利になるように学校の勉強にも励んだ。工業系や美術・工芸、社会関係の教科が好きだった。数学はほとんどできない。通知表の評価は凸凹していた。マンガ家の真島ヒロのファンになった。クライミングで食べていくのは難しいと分かってきた。
 
卒業後、中小企業に入り、歯医者で使うX線装置を組みたてる業務に携わった。「最初の頃はめちゃめちゃ気合い入れてたんですけど。だんだん仕事が難しくなってきて、覚えられなくなったんです」。流れ作業で同じ工程にばかり関わる方式なら良かったのだが、さまざまなタイプの装置を自力で組みあげねばならない。タイプごとに、作り方を新たに覚える必要がある。以前担当した装置を作って欲しいと言われることもあったが、忘れてしまっていて、対処できない。
 
2年目に同僚や親しかった先輩が退職し、サポートしてくれる人がいなくなった。作業が回らなくなる。クライミングも続けていたが、残業で時間が取れなくなって、ストレスに苦しんだ。
 
21歳のときに頭が真っ白になり、仕事が続けられないと感じた。高圧的な上司ともソリが合わなかった。彼のことが怖くて、説明されても頭に入ってこない。仕事に行けず、涙が出てきた。病院に行き、検査の結果、診断を受けた。
 
「発達障害」という言葉は、そのときまで知らなかった。その言葉に嫌悪感を抱いた。「自分は実は人よりもできる人間じゃないか、と信じようとしてきたんです」。主治医は「いままでよく頑張ってきたね。これでよく仕事を3年も続けてきたね」と言った。「善意かもしれないけど、それがすごい悔しくて」。自分が障害者だということが受けいれられなかった。
 
多くの人の助けを受けてきたという記憶、それでも自分にはできなかったんだという思いが、頭のなかをめぐった。ほかの人はもっと努力しなくてもできるのかと思った。「なんでやねん」と思って、泣いた。障害者手帳を取得するかと尋ねられたが、取りたくなかった。主治医に「お守りみたいなものになる」と諭されて、結局は申請した。
 
退職し、引きこもり、メンタルクリニックにしか行けない日々が続いた。だが、しばらくして週1回のクライミングに行けるようになり、それによって鬱から回復してゆく。「クライミングがあって運が良かったと思います」。
 
発達障害とは何かを知りたくて、Twitterで情報を集めた。当事者の集まりがあると知り、「さかいハッタツ友の会」の「京都ムーン」に参加した。他者と関わるのが楽しいと感じ、継続的に通うようになった。「自助会には非日常感がありました。それが楽しくて」。
 
「京都ムーン」の主催者が転勤することになり、しばちゅうさんがこの自助グループの主催を受けつぐことになった。コロナ禍のために、開催形態はツイキャス。どこからでも参加できる、自宅にいながらも参加できるため、オンライン自助会の将来性を感じたと語る。
 
「人と関われない仲間は多いです。自助会に出かけるのは怖くて踏みだせない人もいます。画面を開くだけで参加できるのは、発達障害者に向いていると思う。コロナが終わってもツイキャス配信でも良いかもしれないと考えています」。
 
傷病手当を受け、岩場やジムでのクライミングに打ちこんだ。気持ちの波が大きかったものの、退職して1年後からA型作業所で働きはじめた。休みがちな勤務だったが回復が進み、週5日、勤務できるようになった。通信制の美大に入学したが、作業所と両立できず、中退。いまは一般教科(中1レベル)を学ぶために、学習塾に通いながら、別の大学への進学を考えている。
 
「発達障害があっても、やるべきことは毎日継続することによって、体が覚えていくし、知識が蓄えられていく。だんだんとできるようになる。自分が得意だと思える分野で頑張れば、世間に貢献できる人になれます。ぼくはそれを目指しています」。
(横道誠「発達界隈通信!」第29回了)

 

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