第27回 自助オープンダイアローグするディスコミュニケーション者【横道誠】

第27回 自助オープンダイアローグするディスコミュニケーション者【横道誠】

2021.7.02 update.

横道誠(よこみち・まこと) イメージ

横道誠(よこみち・まこと)

1979年生まれ。京都府立大学の准教授で、専門はドイツ文学研究・比較文化研究。子どものころから「稀代の変人」として、生きづらさに苦しむ。能力の凸凹(でこぼこ)が激しかったが、研究能力に秀でていたため、長年医学的な診断を受けずにいた。だが40歳のときに二次障害を起こし、41歳でついにASD(自閉スペクトラム症)とADHD(注意欠如・多動症)の診断を受ける。
今年5月に上梓した当事者研究の本(ほぼ自伝?)の『みんな水の中』(シリーズケアをひらく、医学書院)が初の単著単行本。

Twitterアカウント:
https://twitter.com/macoto_y(研究者・著者として)
https://twitter.com/macoto_1(自助グループ主催者として)

 

今回は私のことを書こうと思う。

 

ASD(自閉スペクトラム症)に関して、その「コミュニケーション障害」がよく話題になる。私たちは凍てついた海王星からやってきたスライム状の生命体のように、地球人との交流に苦労している。ADHD(注意欠如・多動症)がある場合も不注意、多動、衝動によってコミュニケーションの困難をしばしば感じる。ASDとADHDが併発している私は、「ディスコミュニケーション者」と呼ぶことができるだろう。「意思疎通機能不全者」を意味させたいのだが、にぎやかなイメージの「ディスコ」が入っているのがチャーミングポイントと言える。

 

子どものころから対話が苦手だった。おとなになった自分の知識と能力を持ったまま過去に戻り、人生をなんとかしたいという夢は『ドラえもん』などでも描かれる。私を襲う侵入的想起、つまりフラッシュバック、『みんな水の中』で「地獄行きのタイムマシン」と呼んだものに、逆にこちらから乗りこんでやって、過去の世界へと遡り、個々の現場を訪れて、私がオープンダイアローグのファシリテーターになって、困っている過去の私の状況に介入するという物語を考えた。

 

母親から小学生の私が新興宗教の教育あるいは洗脳を受けている場面に訪れて、母親が心酔していた彼女の亡父、私は会ったことがない自分の祖父と協力して、母親を説得し、彼女の夫、つまり私の父にも発言してもらう。一件落着のあと現在に戻ってくると、いまにいたるまで続いている私の苦しい人生がガラリと変わっているという話。

 

大学生のときに経験した人間関係の深刻なもつれ。それを解きほぐすためにも仲裁に行く。過去の私と、私と揉めていた人を、当時まわりにいた人々にも協力してもらって、交渉していく。そして現在に戻ってくると、いろんなことが好転している。むなしい夢とお考えになるだろうか。

 

危機的な場面は何度もあった。学校でいじめられている場面、レストランで注文できずに苦労している場面、学部生や大学院生のころの学友や恩師との飲み会、外国によく行っていた時期の外国人との交流。私は何度もオープンダイアローグによって介入していく。

 

私のこの新しい本に、『オープンダイアローグ対話篇 助けて時間旅行者!』という仮題をつけておく。

27-1.jpg私が対話への興味を自覚したのは、高校生のときだ。コミュニケーションがうまくいったときに、世界が開かれていくように感じる経験は誰にでもあると思う。私の場合でも、ときには対話がうまくいくことはあった。ほとんどの人よりもうまくいかないために、世界はそれだけいっそう広く明るく開かれたのかもしれない。それは圧倒的な外部が「やってくる」経験だった。

 

大学生のときに、ドイツ文学で卒業論文を書こうと決めて、ローベルト・ムージルのレーゼドラマ(=上演よりも読書に向いている戯曲のこと)『熱狂家たち』を選んだのは、「求めていたのは、こういう対話だ」と思ったからだった。「新しい人間」という理想に異常にこだわる――いま思えば「ASD特性」が濃厚な――登場人物たちの対話劇。彼らはいつでも、郡司ペギオ幸夫が言う「やってくる」体験を待望している。私自身と同じような人々だ。

 

大学院生のときは、ドゥニ・ディドロの『ダランベールの夢』に感動し、ヨハン・ゴットフリート・ヘルダーの『神』をおもしろく読んだ。いずれも18世紀の対話篇で、前者はフランス語、後者はドイツ語で読みふけった。彼らの時代は対話篇の形式で思想を紡ぐことが流行していたのだが、それは著者たちも読者に対話をつうじて「やってくる」体験が起こってほしいと期待していたからではないか、と推測する。20世紀のムージルは「新しい人間」や「可能的な現実」が、18世紀のディドロやヘルダーは「神」や「自由」が「やってくる」のを求めた。それでは21世紀の日本に生きる私は、何が「やってくる」のを求めるのか。

 

私が求めるのは、個々人が唯一無二のものとして際立っていると感じられる「明け透き」の瞬間だ。おそらくそれはハイデガーが考えた「存在」にあたる。「明け透き」(Lichtung)はハイデガーの用語で、森のなかの伐採地を意味しつつ、「光」(Licht)のイメージを重ねあわせた語だ。

 

私が外国の文学や思想の助けを借りすぎると感じるかたには、道元の『正法眼蔵』をおすすめしておこう。

 

この尽界の頭頭物物(ずずもつもつ)を時時なりと覰見(しょけん)すべし。物物の相礙(そうげ)せざるは、時時の相礙せざるがごとし。

 

訳すと、「この宇宙の個々のものを個々の時として眺めるべきだ、個々のものが並存できるのは、個々の時が並存できるのと同じことだ」となる。

 

すべてものはそのものの単独の時間体験を備え、その唯一無二性において、個々の存在感を屹立させている。脚本家・マンガ原作者の香川まさひとさんが、私の『みんな水の中』に関して、大量の固有名詞を氾濫させる私の癖を、単なる衒学趣味と見なさなかったのは、さすがの慧眼だと思った。引用しよう。

 

くくらないで固有名詞と対すること。そして対する私も「香川まさひと」として。たとえば「おはよう」「おはようございます」という目上と目下の挨拶だとしても、個と個の対等な具体的な体験なのだ。そしてそれは私(香川)が変わることをも意味する。

https://twitter.com/kagawamasahito/status/1386104543079895047?s=21)

 

ひとつひとつの個物が際立って輝き、対峙して変容する瞬間。その対話空間こそを、私は求めてやまない。『みんな水の中』は、したがって、オープンダイアローグが結晶したような姿をしている。私はいつでも「十把一絡げ」に抵抗している。自分が気に食わないものを十把一絡げにして貶める論者が世の中にはたくさんいるが、私は彼らをいずれも信用しない。

 

「存在」の哲学者ハイデガーがナチズムに傾倒した理由は、ここから考えるときわめて明瞭だ。ナチスは、あるいはヒトラーはハイデガーに向かって、単独の存在として圧倒的にきらめく「明け透き」を出現させたのだろう。それにハイデガーは幻惑された。そして、そのきらめきが目立ってはいても一個のきらめきでしかなく、ほかの数百万、数千万のきらめきを奪ってしまうものだ、ということにはハイデガーは眼を瞑(つむ)ってしまった。めちゃくちゃにすごい人にも、並以下なところがあるという「発達特性」の問題か。

 

私がオープンダイアローグに期待する明け透きは、その場にいる人たち全員のきらめきだ。ファシリテーターだけが爛々(らんらん)ときらめくのではなく、精神科医やカウンセラーだけが神々しくきらめくのではなく。その場にいる人がみなきらめき、悩みを話してくれた人もきらめきだせば、オープンダイアローグは成功していると思う。

27-2.jpg

 

私は仲間たちとともに、Zoomを使って30回以上のオープンダイアローグを主催してきた。クライアントは、躁鬱病者を中心にのべ50名以上にのぼる。私たちは精神科医やカウンセラーによって主導される従来のオープンダイアローグを発展させ、自助グループとしてオープンダイアローグを運営している。

 

この、日本では――海外でも?――まったく注目されていない「自助オープンダイアローグ」の試みが今後どうなっていくかを、私自身もとても楽しみにしている。主催者たちが各地に散らばっている、コロナ禍で生活しているといった事情からオンラインでやってきたことを、リアルでもできるだろうか。いままでクライアントの家族を巻きこむことはできなかったが、そういう形でもやっていけるのか。課題はいくらでもある。

 

私はオープンダイアローグをやればやるほど、自分が「ディスコミュニケーション者」だと自覚する。ファシリテーターとしても、一参加者としても、「定型発達者」(=発達障害のない人のこと)のように、なめらかなコミュニケーションに参入できない。クライアントとしてオープンダイアローグを受ける側に回ったときには、「自分はやっぱり別の星の住人なんだな」、「定型発達者とは違うな」とかえって断絶感を強化されることすらある。それでも私は対話に希望の光を見る。その「やってくる」力のゆえに。

 

対話したくない人に、対話するように求めるのは暴力だという指摘がある。それはそうだろう。誰しも望まぬ対話をやりたくはない。私だってやりたくない。そのような対話によって、自分がますます破壊されるのが怖いのだ。でも、対話したくない人でも「その人が楽しいと感じる対話」ならやりたい。楽しいならば、誰だって対話したい。楽しくない対話が苦痛すぎるので、対話しないだけなのだ。

 

そのような対話はどのようにして可能になるのか。クライアントの数だけ、どころではない、ひとりのクライアントが持つ悩みの数だけ、答えがあるだろう。その一個一個の答えもまた「明け透き」だ。それに近づいていくことが、私にとってのオープンダイアローグの最大の動機だ。

 

私はオープンダイアローグを自助グループの活動としてやっている。私は専門家ではなく、当事者としてオープンダイアローグに関わっている。そのボランティア精神のなかには、もちろん「困っている人を助けたい」という奉仕の要素がある。しかし私は個人主義者だ。そして私は人としての器の小さい凡人だ。私のボランティアとしての活動には、ここに書いた「明け透き」の探求という個人的な欲求がたしかにある。がっかりする人はいるかもしれない。

 

それでも私のオープンダイアローグに関する知見をもっと知りたいと思うかたは、新作『オープンダイアローグ対話篇 助けて時間旅行者!』を、楽しみに待っていてください。どなたかが実際に依頼してくれたら書こうと思います(仕事募集の回でした)。

(横道誠「発達界隈通信!」第27回了)

 

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