第19回 遠い星と近い自分

第19回 遠い星と近い自分

2021.6.29 update.

中山求仁子(なかやま・くにこ) イメージ

中山求仁子(なかやま・くにこ)

2017年から18年まで、神奈川県のとある放課後等デイサービスの管理者として勤務。自身も幼少期から横綱級ADHDであり、現在は双極性障害も発症している。
大阪大学文学部美学科音楽演劇学コース卒業。高校時代よりモダンダンス、大学入学と同時に小劇場演劇を始める。2001年退団以降、人生自体が演劇のような双極 I 型ジェットコースターライフを送っている。韓国映画と韓流ドラマをこよなく愛す。

 

 

■鳥の女、蛙の男

 

山梨県北巨摩郡白州町。そこでは、散歩をしていると踊りに出会う。

 

たとえば、私は田んぼに囲まれた黄色い土ぼこりが舞い上がる狭い一本道を歩いている。と、向こうから、女が踊りながらやってくる。手で鳥のくちばしに似せたしぐさをし、一本足になってみたり、「トートトト」と歩いてみたり。突然、体がゆらゆら揺れ始める。土ぼこりは蜃気楼のように女の体を包む。やがて女の体の境界と道の空気が揺れ交わり、女はどこまでも続く田んぼ道の一部となる。

 

私は道の端に座り、女の踊りを見つめる。息をひそめて女を見るうちに、女と息が合っている。女はやがて私の前を通り過ぎる。私はまた散歩を始めるが、体に「トートトト」という女の鳥が棲みついた気配がする。振り向いてみる。女は尾のように布を腰から下に垂らし、また一本足で立っている。道の向こうに、山が泰然とそびえている。女と、道と、田んぼと山。女の輪郭が溶け、場に、風景に、もとからあったもののようにはめ込まれている。

 

そのまま歩いていくと、鶏の平飼い小屋にたどり着く。囲いのなかで、小柄だが筋肉質の男がパンツ一丁で倒れたり、くるくる回ったりしている。そのうち、じっと動かなくなる。疲れ果てて野垂れ死んだように柵に寄りかかり、力なく脚を投げ出している。そのとき彼は人間ではなく、乾いた土くれのように見える。……あれ? よくよく見ると、さっき野菜を積んでトラックで走り抜けていった若者じゃないか。「このきゅうり、おいしいですよー」と言って1本投げてくれたのに、なんでここで踊ってるんだ、きゅうり男さん。

 

よくよくおもしろい町だなと思って頭をひねると、道と道が交差する場所で一枚の大きな布切れを掲げ、目の周りを真っ黒にした坊主頭の男がミケランジェロの人体図のように、手と足を大きく広げていた。悪魔までいるようだ。

 

農場は人の体と踊りが錯綜する場だった。体と場は息をしていた。やってきて人たちは客席のない空間で息をひそめ、踊りを見ながら自分の体が取り込まれ、彼らの息づかいに近づいた。通常の社会で使われることばではなく、体の中から発せられる踊り手の体のことばを観る者は、受けて感じ、受けて感じ。それが白州で見た踊りだった。

 

1988年から山梨県北巨摩郡白州町(現北杜市)で開かれてきた踊りの野外フェスティバルは途中から「ダンス白州」と呼ばれ、その最後の年に私たち家族は参加した。2009年のことだ。主宰は田中泯(みん)。

 

2009年初夏、初めて見た田中泯は田植えの前の泥の田で踊っていた。いや、お百姓さんの格好をした泥人間が踊っていた。彼はやがて土蛙のように見え始める。蛙の薄い皮膚から泥がぶちぶち溢れ出し、田の泥に流れ込むのではないかと思っていたら、山から風がヒューと吹いて、泯さん、あおむけに倒れた。私たちは、少し高い丘と石積みの上から脚を出し、あっと見とれた。離れているのに、風が、泯さんの息が吹き込まれた泥の匂いを運んできた。

 

■回る子、飛ぶ子

 

ふと、左のほうに子どもたちの集団がいるのに気づく。息子が泯さんの踊りを見ていた。息子はこの「身体気象・農場」の「子どもの体験疎開」に参加し、2週間ほど知らない子どもたちと過ごしていた。幼児期には繊細に見えた息子は、小学校に入り、急に大モテ期に入った。ヘンな自信を持ち、彼の周りには「なんでもこい」風が吹いていた。それでいっそ、野生児にでもなったら? と、白州に連れて来た。疎開の子どもたちがやることはおもに野良仕事。くたくたになるまで大人と野良をし、おもちゃなんかないから自分たちの体で遊ぶ日々。つまりここは、大人も子どもも、農事をしながら自分の体の内と外と向き合う場所だった。

 

私たちが泊まっているテント近くの雑木林と草っぱらで、疎開学童が遊んでいた。かくれんぼ、鬼ごっこ、石けり……。ちなみに寝るのはテントにごろ寝。お風呂は? とのぞくと、チョロチョロと水が流れるだけのネパールのジャングルキャンプにあるようなシャワーが1本立っているだけだった。

 

ある日、私たちのテントの近くで、子どもたちが遊んでいた。長いおかっぱの細身の男の子が優し気な大男と手をつなぎ、ぐるぐる回っている。大男は男の子の片手を握り、ぶんぶん振り回しているようだが、じつは男の子自身も回転を促している。ときおり、うれしそうに笑ったり、どこか遠くを見ながら不安そうな顔をしたり。ずいぶん回り続けているなあ。その光景を目にするうちに私は、回っているのはあたかも自分であるように感じ始める。いつかそんなふうに誰かの周りをただぐるくると回ったり、同じことを繰り返したり、永遠にそれが続くような錯覚を抱いた憶えがあったからだ。周囲からは奇妙に見えても、「彼はある理由があって止まらないのだ」と私は確信していた。彼は飛ぼうとしていた、どこか別の時と場所に。人の幻想はとめどないものだと私の記憶は知っていた。

 

放デイでは、そういうことは始終起こる。あるとき、スタッフで牛乳パックを集めた。パックのなかにパックを詰め、子どもたちが乗ってもへこまない強度の高い小さい箱をいくつも作った。それをつなげて平均台にし、行ったり来たりするのがシュウ君は好きだった。私はシュウ君と手をつなぎ、その日もつなげた平均台の端から端までを、行ったり来たり、行ったり来たりしていた。

 

「中山さん、よく飽きないわねぇ。私、そんなのムリ」と、隣でトモコちゃんと折り紙を切っている赤木さんが言う。言われて時計を見ると、知らないうちに30分ほど経っていた。私とシュウ君は、高さ10センチもない牛乳パックの平均台を行ったり来たりしながら、どこかの別の世界に飛び出ていたことに気づく。まるで、シャガールの空を飛ぶ恋人たちのように。

 

私の手を取って平均台を歩くシュウ君に、静かに「別のこと、する?」と聞いてみる。するとシュウ君は突然何かに揺り動かされ、現実に戻ったような切ない顔をした。そして平均台を降りる。足下には、トモコちゃんの切ったピンクの折り紙が海のように広がっていた。赤木さんだって同じだ。もう何十分、何枚の折り紙を切っているのだろう。

 

私たちは仕事上、「子どもたちの放課後」という時間をスケジュールしようと試みるが、いつも彼らの時間感覚に体がなじんでしまう。そして、なじむときのほうが一緒にいて心地いい。

シュウ君、トモコちゃん、白州のおかっぱ君。そしておかっぱ君に自分を見た私。私たちは、自分の知らないうちに何かにとりこになっている。自分でも知らないうちに何かを始めている。

 

■私もまた魔法の世界に飛んでいた

 

幼い頃の私は飛んでばかりの子どもだった。

 

あるときは、時計に夢中になった。家にある時計をかき集める。裏をのぞく。ねじまき機械の音がする。たまらなくなる。ねじまきが見たい。ねじまきが、ガチャンとはずれて勝手に動き出すことを願う。でもそういうことはないから、私はどこからかドライバーを持ってきて、ねじを外し、裸の時計のねじまき機械を取り出す。ねじまき機械は、恥ずかしそうに私の前でカチカチと音を立てる。私はかたつむりを転がすようにねじまき機械をコロンコロンと触ってみる。母は呆れて見ていた。私が何かに夢中になっているとき、母が何を言っても私の耳には届かなかった。

 

また、母の実家の東京へ新幹線で向かうとき、母は妹を自分の席で抱き、私の席を隣に取った。しかし私は席には座らず、列車が走り始めると、先頭車両へと向かう。先頭車両にたどり着くと、今度は最後尾の車両へ向かって歩き始める。歩くだけじゃない。当時はまだ灰皿がついていたので、通路側の座席の肘椅子の灰皿を引いて歩く。右を引き、左を引く。右、左、右、左。最後の座席までくると、今度は引いた灰皿を戻して帰る。京都から東京への道すがら、私は席にとうとう座らなかった。

 

そして東京駅着。大丸デパートへ向かう。当時のフロアは、ショーケースが箱のように並んでいた。私はその景色をまるでガラスの迷路だと思った。ショーケースの高さは私の身長と同じくらいだった。その中を走り抜ける私を母はすぐに見失い、迷子放送の常連となった。

 

母の実家は、金物、陶器、生活用品、電気製品を扱っていた。当時は、モノが売れに売れた高度経済成長時代で、店は客で混雑していた。そのなかを私は新幹線のワゴンサービスを真似て、売り物の家庭用ワゴンに弁当箱や魔法瓶を積み「弁当~、弁当~」と売り歩いた。叔父も叔母も自分のことで忙しく、私に何も言わなかった。

 

怒られたのは一度だけだ。売り物のホースを切るときの目安にするため、売り場には1メートルの長さのホースが置いてあった。私はそのホースがずっと気になっていて、ある日、ホースを持ちだし、自分は先っちょを持ち、従兄と従妹に後ろを持たせて、店を出た。店は、駅前の線路沿いにあった。私は降りた遮断機をくぐり、踏切を渡ろうとした。止めてくれたのは、叔母の弟のよっちゃんだった。よっちゃんは目が不自由で、店の近くで指圧院を開いていた。たまたまいたよっちゃんが、私たち3人を抱き寄せたとき、もし、よっちゃんの目があるかないかわからないようなやさしい目じゃなかったら、私は驚いて現実に急に引き戻され、泣いていたかもしれない。

 

時計のねじまきがカチカチと動くのは、私には魔法に見えた。新幹線の灰皿も、引けばビー玉が出てきたり、飴やバッタが仕込まれていることを期待していたような気がする。キラキラ輝くガラスのショーケースの迷路をすり抜けると、私は別の世界にたどり着くかもしれないと思ったように思う。ただしそれは遠い昔への推測に過ぎない。確かなことは、私は気が付くと、すでにしたいことをし、跳躍への道を走り始めていたということだ。

 

■孤独でいては現実は見えない、だけど孤独にならざるを得ない

 

私はときおり、放デイの子どもたちと過ごした時間に見た、彼らの繊細な行動を思い出してみる。特にADHD(注意欠如・多動症)やASD(自閉スペクトラム症)といった障害について、明確な診断は非常に難しいと思ったりする。ふたつを併せ持つ子どもも多くいるし、脳の特殊な動きは非常に繊細だ。障害を言い換えた「特性」という表現は、障害を特別な眼で見る社会のまなざしを変えようとしているのかもしれない。大事なことだけど、子どもたちにとってはそう一言で言い換えるだけでは本質も状況も実は変わらない。彼らとかかわり、支えることは複雑なこともある。そして、その難しさがきっかけで、うつや愛着障害、自傷や他害に結びつく状況が生まれたりもする。

 

ADHDとASD、どちらの要素も持ちながら、緊迫した家庭の空気のなかで人の顔色を見て行動していた私の経験からすれば、現実の状況が厳しいほど、人は別の世界を希求し、思い描くように思う。しかし、その考えを押し広げれば、苦しさから逃走しようとするのは誰だって同じだ。人は現実だけでは生きていけない。現実と確信していることすら、ときに現実ではないからだ。

 

韓国ドラマに、「It's okay,That's love.(大丈夫、愛だ)」というラブコメがある。主な舞台は精神科だ。前半に、性転換をして女性になった患者が家族と親族に暴行され、入院してくるシーンがある。ベッドに寝込む彼女に兄が暴言を吐き、殴りかかろうとしても、彼女はただベッドに横たわるだけ。逃げようとしない。その姿を見て、女性医師は重症のうつ病と診断し、入院を彼女にすすめる。が、彼女は言う。

 

「私はだいじょうぶです。きっと、親も驚いたはず。息子が突然、手術して女になり、“男が好きなの”と言えば、ショックですよね。うつ病くらいなら、家でもなんとかなりますよね?」

 そう言う彼女の車いすを押し、女性医師は彼女を鏡の前に連れて行く。そして静かに言う。

「あなたは殴られた。親兄弟に」

「あなたは耐えた。自分を理解してもらうために」

「顔にあざができ、脚を折られても。あなたは家族を理解し、“帰る”と言う。また家に帰ったら、次は頭を殴られるか、腰の骨を折られるかもしれない。それでも、家族だから、殴られても構わないと言うの?」

 

女性医師の話の際中に、彼女の足元に移ったカメラが再び彼女の顔を映し出す。鏡に映る顔のあざは左目から右目に変わり、傷はより深く、紫色が濃くなっていた。自分の身に何が起こったのかを初めて知った彼女の目から涙がこぼれ、嗚咽する。女性医師が言う。

 

「逃げて。あなたが本当に理解すべき人は、親ではなく、あなた自身よ」

 

自分は自分のことがよくわからないのだ。女性医師が言うように、自分がどうありたいのか、どうしたいのか、人にどうしてほしいのか、彼女は本当に殴られた方の眼を確認したとき、そして何が起こったのかを知ったとき、初めて自分が自分をわかっていないことに気づいたのだ。

自分として生きたい。その願いが困難ならば、何かの手立てを得、誰かの手を借りること、つながりを持つことはとても大切だと思う。そうしないと、自分の生を慈しめないほど人は孤独に陥ってしまう。

 

20数年前に関節リウマチを患い、名医と聞いたリウマチ医を訪ねたことがある。初診時、カルテに向かった医師に対し、「どんな具合ですか」と聞かれた。ぼそぼそと、痛いこと、腫れること、朝、こわばりが続くことを話すと、医師は一拍置いて話し始めた。「リウマチ患者は、わがままだからねぇ。すぐに、やれどこが痛い、ここが腫れるとうるさいんだよね」。

 

今ではもうほとんど使用されないが、当時は画期的な投薬をしてくれる医師だった。しかし私はそれきりそのクリニックには行かなかった。腹が立ったからではない。医師のことばに、リウマチという病気を負った自分という存在が、軽く薄い、どうでもいい人間に思えてしまったからだ。

 

また、誰か苦しみを分かち合える人がいないかとリウマチ友の会に入り、会合に出た。私は周囲から白い目で見られた。年齢が低いこともあったかもしれない。「どこも悪くないじゃない」とひそひそ言われ、バイオリンが鳴り響くなか、居場所がなくて会場から去ったこともある。同じ病気でも、つらさの共有は難しい。

 

以来、私はこころを閉じて病気と向き合うことが癖になった。心療内科に通って十数年、7人ほどの医師の診察を受けてきたが、自己開示をし、完全に委ねたことは一度もない。心療内科は診断と薬をもらいに通う場所であり、私は、ひとりで病気と病気の自分をなんとかしようとしてきた。けれど、それは間違いだったと今ならば思う。なぜなら、人は自分で自分のことをわかるのは苦手だ。そのうえ、私は人一倍、現実離れした世界を思い描き、生きてきたわけで、そういう私にはきっと、現実で手をつないでいてくれる誰かが必要だったのだと思う。しかし、そんな人がいるのか。私は傷つくのが嫌で一歩が踏み出せず、孤独のままに過ごした。

 

■二人羽織の当事者研究

 

そうするうちに、「当事者」ということばがここかしこで聞こえるようになった。私にはうれしいことばではなかった。閉じた私を社会が強制的な役割を与え、自分を無理やりこじ開けられる気がした。

 

当事者意識を持ち、当事者研究によって、当事者の声と当事者がより楽しく暮らせる、ということなのか……。それ自体はいいことだ。ただ、私にはとても難度の高い離れ業だなあと感じた。なぜなら、長年の癖で、私は自分がつらくならないように、自分をなるべく掘り下げないようにしてきたからだ。研究なんてとんでもない、自己開示なんてとんでもない、私は堂々「当事者です」なんてとても言えない。なのにこのまま行ったら、当事者というレッテルに飲み込まれ、その名前に縛られてしまうんじゃないかという気がして、いろんな当事者研究の本を読みながらも気持ちは後ずさりしていた。

 

そんな話を書いた草稿を編集の白石さんに書いて送ったら、北海道の浦河べてるの家で「当事者研究」が生まれた経緯を教えてくれた。とりあえず「当事者」ということばには、自分の精神障害の苦しみや喜びを知らない専門家に対し、「病気の主役は自分だ」という意味があるという。これは専門家の判断次第で薬を服用せざるをえない私たちにも共通する。

 

加えて、最初は「自己研究」といわれていたと。それが社会的なニュアンスを含む「当事者研究」になったとき、自分で自分の内部を探る研究から、「当事者と呼ばれる自己を他人事のように研究する」ことになった。つまり自分を自分の中から取り出して、それを自分の周囲に集まった、近しい、同じように人生に悩みを抱えて生きてきた人々と場を作り、研究する。そして、人々によって「そうだね」と言われた自分を自分として再定義して飲み込む。

 

その定義のことばのセンスも、社会と反対方向の価値観に満ちていて、とてもおもしろかった。私は驚いてもう一度、『べてるの「非」援助論』を読んだ。私と同じ、「知らないうちに飛んでいる」人々と、それを受けては感じて一緒に生きている人々の姿だと知った。

 

もうひとつ、数々の当事者研究のなかで、読み返し、当事者研究という包容の温かさを感じたエピソードがある。自分の周囲との違和感を探っていくうちにASDという、レッテルではなく概念にたどり着いたという綾屋紗月さんと熊谷晋一郎さんの『発達障害当事者研究――ゆっくりていねいにつながりたい』。

 

後半で、脳性まひを持つ熊谷さんと手話歌ワークショップの発表会に行った綾屋さんは、「よくわからなかった」という熊谷さんと、後日、ダンスシーンのあるDVDを観る。綾屋さんは、二人羽織のように後ろに回り、リズムを刻み、熊谷さんの手足を動かしたり、体にうねりを伝えたりした。すると熊谷さんは、「ああ楽しい。こんな感じなんだね。映画の世界が近くなった」と言う。熊谷さんが「よくわからなかった」と綾屋さんに言えるのも、二人羽織ができるのも、ふたりに温かいかかわりとつながりがあるからだ。この世の一隅で人知れず二人羽織をして笑い合うふたりが、私は当事者研究だと思う。

 

そして私の今までが重なる。ふたりがおこなったこの映画の当事者研究は、放デイでは普通に子どもと支援者の間で交わされ、10年前に白州で行われていたことと同じ気がする。それは、互いが体で体の内の声を聞くこと。

 

人間は、自分と人の違いを感じたうえで何か一緒にしたい気持ちになる、または人と違うように見える人と自分が似ている、それが少しうれしいと感じる。その体験が人生を誰かとともに歩んでいく媒介となるのではないか。それは空から降る星に出会うような喜びのはずだ。

 

■夜空がひらけ、無数の星がやってきた

 

白州の話に戻ろう。

 

大人たちの体でことばを伝える演目を終え、大人たちが帰ったのちも、子どもたちは疎開を続けた。その最終日の前日、森のなかの開けた河原に息子たちは出かけた。寝袋を持ち、薪を背負い、焚火をし、夏の寒い夜を過ごす。

 

気付くと、自分の寝袋に小さい子が眠っていた。

しかたない。息子は凍えそうになりながら、焚火を続けた。

夜更かしをしたことのない息子が、深夜を超えても起きている。

ぱちぱちと木や枝がはぜる音がする。

隣には、おかっぱのあの子がいた。

君はどうしてここに来たの?

息子は答えない。

楽しかった?

息子はうなずく。

ぼくも楽しかった。明日会えなくなるなんて、さびしいよ。もうきっと会えないね、ぼくたち。

答えられない、眠くて、眠くて。

小枝を火にくべ、うんと息子が答えたとき、パチという大きな音がして、ふたりは、うわっと焚火から遠のく。そしてあおむけに倒れる。

目の前に夜空が開けた。桎梏(しっこく)の闇に、無数の星が瞬いていた。流れ星が踊るように流れていった。

空に星がこんなに多いとは、息子は思っていなかった。

それは降るような星だった。

それまでも、そしてそれからも、見たことのない星だった。

 

夜通し眠らず河原で過ごし、家に帰り着いた息子はその話をしたきり、ほぼ三日間、泥の体のままで眠り続けた。前にもあとにも、そんなことは息子の身に起こっていないが、彼のなかであの夜の星は今も輝き続けているらしい。私はベッドの脇に座り、息子の頬をなでた。息子の寝息が安らかに部屋に響いた。

(中山求仁子「劇的身体」第19回了)

 

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