第25回 発達障害だから自分の人生はダメだって、ぼくらが思わせちゃいけないなと思っています【アライタイツさん】

第25回 発達障害だから自分の人生はダメだって、ぼくらが思わせちゃいけないなと思っています【アライタイツさん】

2021.6.23 update.

横道誠(よこみち・まこと) イメージ

横道誠(よこみち・まこと)

1979年生まれ。京都府立大学の准教授で、専門はドイツ文学研究・比較文化研究。子どものころから「稀代の変人」として、生きづらさに苦しむ。能力の凸凹(でこぼこ)が激しかったが、研究能力に秀でていたため、長年医学的な診断を受けずにいた。だが40歳のときに二次障害を起こし、41歳でついにASD(自閉スペクトラム症)とADHD(注意欠如・多動症)の診断を受ける。
今年5月に上梓した当事者研究の本(ほぼ自伝?)の『みんな水の中』(シリーズケアをひらく、医学書院)が初の単著単行本。

Twitterアカウント:
https://twitter.com/macoto_y(研究者・著者として)
https://twitter.com/macoto_1(自助グループ主催者として)

 
アライタイツさんは31歳、東京都内在住。ADHD(注意欠如・多動症)とパニック障害の診断を受けている。
 
小さいころ、遊園地に行ったときのこと。家族で行動していたのに、急に姿を消した。親に発見されたときは、知らないおじさんにソフトクリームを奢ってもらっていた。「集団行動が得意でなく、ひとりでフラフラしてましたね」。母親は「この子は大丈夫なんだろうか」と悩んだ。結果、「かなり厳しく育てられました」。
 
「田舎の学校だったので、クラスがひとつだけ。20人前後でした」。いつも同じメンバーのなかにいて、目立っていたわけではない。8歳のときから「根性を鍛えなおす」という名目で剣道を習わされた。楽しいと感じたことはなかった。しかし絵を書くのが好きで、おおむね伸び伸びと過ごしていた。「何かに困ったという記憶はありません」。中学でも変わらず1クラスのみ、クラスメイトは20人くらい。
 
そんなある日、インターネットで見た植芝理一のマンガ『ディスコミュニケーション』に魅了された。「書き込みのすごさです」。街の古本屋やインターネット通販でマンガを集めるようになった。小遣いはほとんどマンガ。あずまきよひこの『よつばと!』、木村紺の『神戸在住』、芦奈野ひとしの『ヨコハマ買い出し紀行』も好んだ。牧歌的でありながらSF的な浮遊感のある作品ばかりだ。
 
音楽にも目覚めた。両親の車では、いつもサザンオールスターズの曲が掛かっていた。それがアライさんの音楽的原体験。中学生のころから、ASIAN KUNG-FU GENERATION(アジカン)やくるりの熱心なリスナーになった。しかし、このころはまだ楽器を始めなかった。
 
中学のころも剣道の道場に通っていたものの、結局は楽しくなかった。「音楽とか絵とか、そっちをやりたかったんですけど、田舎ならではの付き合いっていうのがあって。辞めづらかったですし、イヤイヤやってた感じです。根っから文化系で」。
 
高校は「街中の普通のところ」に進学。新世界は戸惑いの連続だった。9年間1クラス20人の世界から、急に7クラス、10倍の人間がいる世界へ。「ここでもみんな友だちなんだと思ってしまって、誰にでも話しかけて、「なんだ、あいつは」と不思議がられました」。スクールカーストも理解できなかった。
 
高校では剣道の道場に通わなくなった。美術部に入りたかったが、ずっと剣道をやっていたことが先輩たちに知られていた。声をかけられ、流される形で剣道部に入ってしまう。しかし、やはり楽しくない。
 
高校では、50分間の授業に耐えられなかった。うろついたりはしなかったが、ノートにずっと落書きをしていた。提出物を出さずに、学校から電話がかかってきた。優秀なふたりの姉と比較されて、引け目を感じた。授業に出るのが億劫になり、古本屋で立ち読みしてから登校するなどした。下から数えたほうが早い成績。
 
大学に入って、東京に出てみたいという気持ちが強かった。進学前から劣等感が強かった】。「吉幾三じゃないけど、オラこんな村イヤだって思ってました」。美術系に進みたかったが、反対された。「ぼく自身、絵で食うのは厳しいんだろうな、とは考えてましたね」。偏差値が低かったため、一浪して進学。
 
専攻は社会学だった。姉のひとりが同じ学部に通っていて、当初はふたりで一緒に住んでいたが、うまくいかず、すぐにひとり暮らしを始めた。サークルは軽音学部。アニメ『けいおん!』が流行していたころで、部員が多かった。ドラムを担当し、初心者だったため、練習に打ちこんだ。授業をよくサボった。アルバイトをして、機材を購入する。アジカン、くるり、aikoなどを演奏した。
 
「でもやりたいことと違うなって思いはじめたんですよね」。そんなある日、同じ軽音系の別のサークルの演奏を聞いた。「少数精鋭のストイックなところ。ミドリの演奏がカッコ良すぎて、度肝を抜かれました。コピーバンドでも、魅せるバンドってこういうのなんだって思って」。アライさんは、そのサークルに移籍する。
 
加入したバンドは、やがてコピーバンドを脱することになった。ライブハウスに行って、オリジナル曲を演奏して、1日が潰れる。多忙だった。
 
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そして人生の転機が訪れる。2年生の終わりごろ、満席の喫茶店で動悸と吐き気を覚え、トイレに駆けこんだ。吐こうとしたが、吐けない。「これ死んじゃうかもしれない」と考えながら、倒れこんだ。店員が救急車を呼んでくれた。
 
だが、その発作は15分から20分で治まってしまった。急患で診察を受けたものの、異常なしとの診断。医者から「お酒でも飲んでたんじゃないの」と冷たくあしらわれるという屈辱。「あんなに怖かったのに、こんなこと言われちゃって、と泣きながら帰ったのを覚えています」。
 
半年のあいだ、原因が分からないまま予期不安と戦った。嘔吐恐怖症になり、酒を飲まなくなった。胃のなかに物を入れるのが怖くなった。「拒食症になり、半年ぐらいで20キロくらい落ちました。固形物を食べた記憶がないんです」。発作が起きたらどうしようといつも怯え、実際に試験中に発作が出て、途中で退出ということが起こった。
 
心身ともにボロボロになってしまい、バンドは解散。就職活動の時期だったが、それどころではなかった。仕事を見つけなければという焦燥感に駆られて、面接に行くものの、「発作が出て不合格。ぼくはもうダメなんだなって、ぼんやり思うようになりましたね。生きてても苦しいだけで、死ぬしかないんじゃないかなって」。
 
親が心配して、ひとり暮らしの家に様子を見にきた。アライさんはガリガリに痩せていた。病院に連れていかれて、ようやくパニック障害の診断を受けた。「初めて薬を飲んだあとに、牛丼屋に行って、久しぶりに牛丼食べたんですよ。並の牛丼を全部食べれたんですよね。そのとき泣きましたね。やっと原因がわかった。ご飯がおいしいなって感じました」。
 
解散していたバンドを再結成して、またドラムをやるようになった。4年生からはきちんと授業に出て、単位取得と卒業を目指した。リーマンショック後だったために、30社ほど受けて、すべて不合格。
 
「周りは決まってるのに、自分だけ決まってない。親と話し合いになりまして。いったん実家に帰るかと言われたけど、東京にいて、いろんな人と出会ってみたいという気持ちがあったんです」。
 
コンビニで4、5時間のアルバイトをしていたが、大きな問題を起こしたことがなかった。そこで当面はアルバイトで生計を立てていくことを決意し、フリーターになった。
 
社会人になったアライさんは、何もうまくいかない事実に直面した。初めは雑貨店で販売業に従事した。「頭のなかがずっとパニックでした」。ひどい失敗をして、毎日店長に怒鳴られて、泣きながら電車に乗って帰った。面接に来た人の履歴書をまちがってシュレッダーにかけてしまい、本社に伝わって、始末書を書くことになった。泣きながら母親に電話した。手取りが12万円にも届かず、生活が苦しかった。「がんじがらめでした」。パニック障害は薬で抑えられているのに、原因が分からない。
 
やがて事務職に移った。慌てることがなくなり、販売業より向いていると知った。私が「ADHDを診断されているほかのかたたちとは、逆の体験談に聞こえます」と感想を述べると、「ぼく自身ははむしろASD(自閉スペクトラム症)が強いと感じています」との返事。
 
26歳から27歳まで、コラムの編集者を務めた。朝10時から夜11時まで勤務。9時に仕事が終わると、「きょうは早いな」と感じた。借金を40万円以上も抱えていたため、返済のために頑張っていたが、返済しおわると同時に、体が壊れた。
 
不眠症になり、病院に行くと、主治医が「これまで聞いてきたことを考えると、もしかして」と発達障害の可能性を指摘してくれた。検査の結果、27歳でADHDと診断。自律神経失調症と言われていた祖父のことを思いだした。自分に通じるところがあった祖父。「きっとおじいちゃんも、そうだったんでしょうね」。
 
実家で1年過ごし、障害者手帳を取得した。障害者雇用を目指し、バンドメンバーの募集に応じた。バンド「Cheekcut」を2019年秋に結成したが、すぐにコロナ禍の到来。現在は練習に励んでいる。バンドのメンバー3名は、揃って精神障害者保健福祉手帳3級の該当者。「これでご飯を食べていこうとまでは思ってないけど、長く続けられるといいですね」。
 
アライさんは語る。「下の世代の人たちに、発達障害だから自分の人生はもうダメだって、ぼくらが思わせちゃいけないなと思っています。それがバンドの目標。一方仕事では、障害者雇用のリーダー役を務められるようになりたい。ちゃんと働けて、ご飯が食えるんだよってことを、証明できる人間になりたいんです」。
 
「発達障害は大きな免罪符にならない。発達障害だから仕方ないと考えると、未来はありません。障害があったら、人の10倍は考えて、工夫しないといけないと思ってます。発達障害や精神障害があっても、それに引っ張られすぎてはいけない。楽しいことはたくさんあります」。
 
アライさんのバンド、Cheekcutの音楽は、ここで視聴できる。https://www.youtube.com/user/washingtights?app=desktop
 
(横道誠「発達界隈通信!」第25回了)

 

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