第24回 発達障害者を一括りにして画一的な支援を模索しても、当事者の利益に繋がりにくい【山瀬健治さん】

第24回 発達障害者を一括りにして画一的な支援を模索しても、当事者の利益に繋がりにくい【山瀬健治さん】

2021.6.13 update.

横道誠(よこみち・まこと) イメージ

横道誠(よこみち・まこと)

1979年生まれ。京都府立大学の准教授で、専門はドイツ文学研究・比較文化研究。子どものころから「稀代の変人」として、生きづらさに苦しむ。能力の凸凹(でこぼこ)が激しかったが、研究能力に秀でていたため、長年医学的な診断を受けずにいた。だが40歳のときに二次障害を起こし、41歳でついにASD(自閉スペクトラム症)とADHD(注意欠如・多動症)の診断を受ける。
今年5月に上梓した当事者研究の本(ほぼ自伝?)の『みんな水の中』(シリーズケアをひらく、医学書院)が初の単著単行本。

Twitterアカウント:
https://twitter.com/macoto_y(研究者・著者として)
https://twitter.com/macoto_1(自助グループ主催者として)

 
山瀬健治さんは55歳、東京都内在住。ADHD(注意欠如・多動症)の診断を受けている。
 
言葉の覚えが遅く、3歳時検診で知的障害の可能性を疑われた。保育園では昼寝の時間にじっとしていられず、ほかの子を起こしてしまうという理由で、退園を余儀なくされた。
 
小学校に入ったが、とにかく忘れ物が多かった。給食の食べ残しを机のなかに入れて、腐らせる。ロッカーのなかはゴミだらけで、学期末にとんでもないものが出てくる。通信簿には、忘れ物のことが書かれ、人の話をよく聞きましょうと注意された。
 
診断はADHDだが、長年にわたってASD(自閉スペクトラム症)の特性が強かった。気に入ったフレーズがあると繰りかえして口にした。コンクリートで舗装された歩道を渡るとき、ブロック模様を桂馬飛びで歩いた。アスファルトで舗装された横断歩道を渡るときは、白黒の白だけを踏むようにした。複雑な迷路を紙に書いて、楽しんだ。
 
低学年のころから将棋が好きで、6年生のときには全国ベスト32に入った。「でも将棋会館で指すようになると、二段は取れたものの、全国から集まる同年代のプロ志望者にはまったく歯が立ちませんでした。天才はいくらでもいると思い知らされました」。
 
中学年のころからいじめに遭った。校内暴力がもっとも社会問題になっていた時代。「公立に上がったらいじめ殺される。不良がいない世界に行きたい」と考え、親に頼んで私立中学を受験した。
 
中学時代は勉強に明け暮れた。得意科目と苦手科目の差が大きく、特に暗記がこなせなかった。プロになることを諦めて、将棋部に入った。「なまじ才能がなくて良かったです。将棋界を目指しても、年齢制限でプロになれなかったら、後戻りが難しいですから」と語る。
 
中学生以降はいじめられることがなかったから、「逃げて正解だったな」と考えた。中島敦やロバート・A. ハインラインを好んで読んだ。「同じ趣味の者同士がクラスを超えて屋上に集まり、昼ご飯を食べる文化がありました」。楽しい記憶として残る。
 
中高一貫だったため、高校受験を経験していない。引きつづき、勉強に打ちこんだ。海外のラジオ放送局を短波で聞いて、景品に応募したことを覚えている。高校2年生から、当時人気だったマイコンのサークルに入った。コンピューターゲームを作成し、作成秘話を同人誌にまとめて、コミックマーケットで売る。まだファミコンが発売される前。東洋哲学が好きで、諸子百家のことを勉強したかったが、志望校の国立大学の文学部に落ち、「それなりの私立大学に入りました」。
 
専攻したのは法学。「でも論理的だから、法律も好きでした。いじめられた経験があったから、正義を求めていた」。とはいえ大学では、履修を進める上で自己管理が必要。思うように単位が取れず、5年通ったものの中退。「現在のような大学側からの“発達障害学生支援”があったら、卒業できたかもと思います」。
 
それから2、3年のあいだ引きこもり、本を読みまくった。中心は技術書だが、ジャンルを気にせず、たくさん読んだ。和久俊三の「赤かぶ検事」シリーズが好きだった。
 
独学を進め、25歳のときにプログラマーとして就職。人間関係は悪くなかったが、ブログラムの納期の見積もりが甘くて、何度も失敗した。2、3年やっているうちに鬱になって、勤め先を辞め、半年くらいで回復して就職するというパターンを5、6回ほど繰りかえした。
 
将棋も細々と続けていた。「奇襲系、イロモノが好きで、よく調べてましたね」。30代には「観る将」(観戦専門の将棋ファン)に転向したが、40歳を過ぎてから四段を取得した。
 
20世紀から21世紀に変わる前後、アダルトチルドレンが社会的に注目されていた。山瀬さんの父親はアルコール依存で、10歳のときに両親は離婚した。だから自分の問題はそれなのだと考えた。発達障害は、社会でまだ認知されていなかった。
 
30代のうちに、「体力や知力が落ちてきて、こだわりの特性が弱まりました」と語る。「頑固さが維持できなくて、良い意味で力が抜けて、良好な結果を生む経験が重なりました。どうでもいい部分のこだわりはなくてもいいって、再学習ができました」。
 
しかし、相変わらず転職を繰りかえす生活。「真面目にやってるのに、どうしてうまくいかないんだろう」と思いつめ、死にたくなり、アルコールに溺れた。20代だった青年は、40代の中年へと変わっていた。コンピューターをめぐる環境はWindows95以前からiPhone登場の時代へと移ろっていったが、休職していているあいだも専門書を読んで勉強したため、技術革新から取りのこされなかった。
 
40代前半に、友人のツテで専門学校のエンジニアとして就職。納期に関わる悩みからは解放されたが、数年後に雇い止めになった。また引きこもりの生活。鬱になった友人を支援していると、鬱を抜けても、さまざまに苦労している。調べているうちに、友人が発達障害で、自分も同様だと気づいた。ようやく「おとなの発達障害」が社会問題になっていた。しかし専門に見てくれる病院はほとんどない。調べるうちに、2014年に設立された「みどる中高年発達障害当事者会」に行きあたった。2015年のことだ。
 
鬱だった友人と一緒に「みどる」に参加。眼から鱗が落ちた。「おとな向けの発達障害情報をちゃんと持っているのは、成人当事者です」。友人は、特性が強いほかの当事者をイヤがって行かなくなったが、自分は通いつづけ、半年後に病院を紹介してもらって、診断を受けた。「単にできないやつ」ではなくなったと感じた。その後、山瀬さんは「みどる」の代表に就任した。
 
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山瀬さんは語る。「福祉行政による支援は、若年層、青年層が中心です。年齢が上がって発達障害の診断を受けた層は、早くに診断を受けた人たちより特性が弱いことが多いです。しかし特性が弱いからといって、困りごとが少ないとか軽いというわけではない。福祉行政の支援を受けられず、自殺、生活保護、ホームレス、犯罪に繋がる可能性も否定できません」。
 
「発達障害の特性の種類や強弱は人それぞれです。借金玉さんは、発達障害者をバリ層、ギリ層、ムリ層に分類している。行政も、発達障害の多様性を理解した上で、支援してほしい。発達障害者を一括りにして画一的な支援を模索しても、当事者の利益に繋がりにくい」。
 
「関東では、当事者グループの中心が、定型社会に居場所のない人が互いに寄りそうための会なので、居場所にはなっても、情報収集で役に立たないことが多い。力のある当事者は「当事者会には生産性がない」と見捨てて、バーなどで発達障害のイベンターになる。現実逃避的でない自助グループが栄えている関西の状況がうらやましいと思うことがあります」。
 
山瀬さんは自分自身のためにも、ほかの中高年当事者のためにも、東京で数少ない相談機能を持った、中高年に特化した「発達障害の当事者会」を背負いつづける。
(注)「みどる中高年発達障害当事者会」→https://midoru.net
(横道誠「発達界隈通信!」第24回了)

 

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