第20回 自分のことを自分で評価するの無駄やなって思ったんです【ケンジさん】

第20回 自分のことを自分で評価するの無駄やなって思ったんです【ケンジさん】

2021.6.04 update.

横道誠(よこみち・まこと) イメージ

横道誠(よこみち・まこと)

1979年生まれ。京都府立大学の准教授で、専門はドイツ文学研究・比較文化研究。子どものころから「稀代の変人」として、生きづらさに苦しむ。能力の凸凹(でこぼこ)が激しかったが、研究能力に秀でていたため、長年医学的な診断を受けずにいた。だが40歳のときに二次障害を起こし、41歳でついにASD(自閉スペクトラム症)とADHD(注意欠如・多動症)の診断を受ける。
今年5月に上梓した当事者研究の本(ほぼ自伝?)の『みんな水の中』(シリーズケアをひらく、医学書院)が初の単著単行本。

Twitterアカウント:
https://twitter.com/macoto_y(研究者・著者として)
https://twitter.com/macoto_1(自助グループ主催者として)

 
ケンジさんは30代後半、大阪在住。ADHD(注意欠如・多動症)を診断されている。
 
子どものころはたいして困らなかった。授業中に座っていられないといった、ほかの発達障害者に多い困りごともなかった。あえて言えば、喧嘩っ早かったことくらい。成績は中の上で、このくらいで充分と考え、特に勉強しなかった。
 
美術や書道など手先の器用さが求められる教科は苦手。字をせかせか書いていて、綺麗に書けなくなったと自己分析する。体の力を抜くのが苦手で、「弱と強しかない」。だからリコーダーを吹いても、力が入りすぎて、いつも小指が立っていた。サッカー部だったが、ボールを操るのが苦手だった。
 
中学生のときの成績は「10段階で7や8くらいだった」と語る。「全般的にだらだらしていました」。他方、負けず嫌いなところがあり、サッカー部のレギュラーになって、大阪府の大会でベスト16に入った。最後に負けて、チームのなかで一人だけ泣いた。ソロバン塾では「年上に軽くいじめられた」が、学校でそういうことはなかった。いじめる側に回ったこともない。
 
高校は「偏差値50くらいの公立高校。不良もいるわけやないし、とびきり頭がいいのもいない」。サッカーの部活動を継続した。「賢くない学校やから、成績よくなるのが簡単やったんです」。だんだん勉強が楽しくなり、3年生のときに受験勉強に励んだ。関西の名門私立大学に合格。高校のときにも困ったことはなかった。恋愛に興味が湧かなかった。
 
大学では経済学を専攻する。自宅から2時間かかるのを嫌って、あまり通わなかった。「大学に入って何かしたいという思いがなかったんですわ」。ひとり暮らしをしたが、それでも通学しなかった。サークルに入らなかった。友だちはほとんどいなかった。
 
2002年、日本と韓国でFIFAワールドカップが開かれ、大阪にも外国人が多数滞在していた。英語を使って交流するのがおもしろいと感じた。休学してワーキングホリデーを利用し、オーストラリアに1年間ほど留学した。語学学校に行ったり、各地に旅行したりして、積極性が大事だと実感する。しかし英語が全然うまくならなかった。「音声を理解するのが苦手でした」。
 
復学して1年留年し、就職活動をした。このころから吃音を指摘されることが増えた。「緊張していたのも大きかったです。でもいまでも詰まりやすいですね」。
 
入社したのは、東京の電子部品を作る会社。残業が多く、夜の12時に帰ることもあった。「きょうは金曜か。もしきょうが月曜なら、おれ死んでるな」などと考えた。仕事が遅いとの指摘を受けた。「余計なこと考えてしまうんです」。会話にも困った。大阪弁で話すのを嫌がられ、留学生のようだとも言われてショックだった。
 
1年ほどで会社を辞めて大阪に戻り、吃音者の自助グループに通った。1年ほど「だらだら」して、鋼材のメーカーで営業として働くようになった。「すごく困りました。型番をめっちゃまちがえるんですよ。いくら気をつけても、ミスが改善しなかった」。定時で帰ることができるなど就業環境は良かったものの、仕事ができなかった。
 
3年働いたころ、インターネットで発達障害の情報を得て、病院に行った。医者はつぎつぎにADHDの症例を口にした。ケンジさんは「先生、なんでぼくがいまから言おうと思ったこと、言うんですか」と応答した。診断については会社に報告しなかったが、まもなくクビになった。
 
また1年ほど「だらだら」した。「貯金があると、なくなるまでだらだらする傾向があって」。つぎの会社でも営業。障害についてオープンにしていなかったが、2年くらい働いた時点で、身内に発達障害者がいる上司から、指摘を受けた。「正直どう扱っていいのか分からん」。車の自損事故を起こしたことがあったため、内勤を命じられた。ケンジさんは発達障害者だと認識されながら働く環境を苦痛に感じて、退職した。
 
発達障害者支援センターやハローワークなどに相談したが、追いかえされた。「あなたはそんなに困ってないでしょ。ちゃんとコミュニケーション取れるじゃない」。行政の支援を受けられず、苦悩した。大阪市の就労支援施設に行くと、「40歳まではクローズで頑張ったら?」と声をかけられ、勇気をもらった。「結局40前にオープン就労になりましたけどね」。障害者手帳を取得した。
 
今度は福祉用具の卸会社に就職。待遇はこれまででもっとも良かったところだが、もっとも「合っていなかった」。不器用なのに車の運転、用具の設置、解体を命じられる。3年で退職し、貯蓄を使って2年間「だらだら」した。「でもこのときは精神的にボロボロで、世界でいちばんダメな人間じゃないかと思って生きてましたわ」。
 
苦しいケンジさんには、自助グループが救いになった。以前から参加はしていたが、それほど魅力的には見えなかった。しかし、心が壊れたケンジさんにとっては輝きが増していた。
 
「みんな結構ぼくのこと褒めてくれるんですよ。自分では100点満点で5点くらいと思ってたけど、ぼくのことを5点以下で評価する人は誰もおれへんなって思って。自分のことを自分で評価するの無駄やなって思ったんです」。何かに挑戦するとき、想像のなかでは失敗のイメージしかなかったが、自分が思っていたよりは成功することに気づいた。
 
2018年4月に自助グループ「大阪の片隅でADHDについて話す会」を結成。それまでにはなかったADHD専門の自助会。北海道から来てくれた夫婦がたまたま立ちよってくれたことをよく覚えている。
 
自助会の参加者が、クローズの派遣の仕事を紹介してくれた。一度は断ったが、考えを変えて12月からその仕事を始め、8か月ほどで辞めた。2019年7月、大阪府茨木市で発達障害バー「ムゲーテ」が開業すると、バーテンダーを務め、11月から親会社の就労移行会社でも働くことになった。
 
ケンジさんは発達障害の自助グループが普及しないことに悶々とするようになり、「ハッタツエキスポ」なるものを構想するようになる。発達障害自助会の博覧会。
 
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2019年、大阪大学で、豊中市南部地域の課題を解決する公開ゼミが開かれ、ケンジさんは参加した。ダイバーシティに熱心なデザイン会社と人脈ができた。100名ほどが集まるプレゼン会場に行くのが嫌で、集合時間をまちがえ、集合場所もまちがえた。しかし関西経済同友会が後援についた。発達界隈の協力者と連携して、2020年10月に「ハッタツエキスポ」開催。コロナ禍に対応した体制づくりをして、日本全国から参加者が押しよせた。
 
ケンジさんは、発達仲間にぜひ提言したいと言う。「人を恨むより、もっと自分で頑張りましょ。誰かのせいにするよりも、自分の可能性を信じましょう」。発達界隈は、さまざまな怨嗟が渦巻く場所だ。ケンジさんは、私たちが負の感情に飲みこまれるべきではないと考える。

(横道誠「発達界隈通信!」第20回了)

 

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