第19回 地道に仲間をひとりでも増やすことが、世の中を変えていくことの近道だと思っています【広野ゆいさん】

第19回 地道に仲間をひとりでも増やすことが、世の中を変えていくことの近道だと思っています【広野ゆいさん】

2021.6.02 update.

横道誠(よこみち・まこと) イメージ

横道誠(よこみち・まこと)

1979年生まれ。京都府立大学の准教授で、専門はドイツ文学研究・比較文化研究。子どものころから「稀代の変人」として、生きづらさに苦しむ。能力の凸凹(でこぼこ)が激しかったが、研究能力に秀でていたため、長年医学的な診断を受けずにいた。だが40歳のときに二次障害を起こし、41歳でついにASD(自閉スペクトラム症)とADHD(注意欠如・多動症)の診断を受ける。
今年5月に上梓した当事者研究の本(ほぼ自伝?)の『みんな水の中』(シリーズケアをひらく、医学書院)が初の単著単行本。

Twitterアカウント:
https://twitter.com/macoto_y(研究者・著者として)
https://twitter.com/macoto_1(自助グループ主催者として)

 
広野ゆいさんは48歳。兵庫県在住。ADHD(注意欠如・多動症)とASD(自閉スペクトラム症)傾向を診断されている。
 
静岡の出身。小さいころ、人に会うと「固まった」。一言もしゃべれず、「がま口みたいな子、と言われていました」。愛想笑いができなかった。幼稚園のころ、ゴレンジャーごっこをしていて、モモレンジャーをやった。女の子とままごとができず、男の子とばかり遊んでいたのだ。お遊戯の時間には、ひとりで絵本を読んだ。
 
小学校に入ると1年生から忘れ物が多く、片付けができず、通知表に整理整頓ができないと書かれた。3年生のときに担任の先生から「忘れ物の女王」と呼ばれたが、特にショックではなく、「そのとおりだ」と受けとめた。友だちと遊ぶということがよく分からず、約束をすっぽかした。「ほかの子と協力できるようになりましょう」と通知表に書かれた。成績はおおむね平均的だったが、計算問題に関しては他人よりも目立って時間を要した。
 
中学生になってもクラスメイトといるのが困難で、ひとりで読書するのを好んだ。教室を移動する際、気がつくとひとり取りのこされていた。毎日のように保健室に通った。テニス部に属していたが、ボールをじかに投げるバスケットボールやバレーボールは不得意だった。高校受験が迫ってきて、初めて勉強をする意欲が湧いた。成績が向上したが、単純計算をしたり漢字を正確に書いたりすることができなかった。
 
高校は自宅の近くにあったものの、「先生が出席を取るまでに入れば良い」と考えて、遅刻多数。午後から登校することが多かった。「真面目やったんですけど、不良の皆さんと一緒の時間に登校してました」。「遅刻の帝王」という渾名がついた。テニス部の部長を務め、部活にはしっかり通ったが、練習の仕方をめぐって指導者と対立した。
 
眼の前にいる人とは話せたが、深い人間関係を築きにくかった。他方で、誘われたら断れない一面もある。なんでもズバズバと発言したことを、いまでは反省している。「傷ついた人が多かったと思います。いじめられることはなかったんですけど、その言い方はないよねと指摘されていました」。
 
大学受験の1、2か月前にだけ集中して勉強に励んだ。寒いからという理由で教室を出てゆき、図書館で勉強した。他人がいるところでは勉強できないため、家族が寝静まるのを待った。東京の有名私立大学の文学部に合格し、周囲を驚かせた。
 
国文科に入ったものの、授業にはそれほど興味が湧かなかった。サークルでテニスを続けた。飲み会などがあると「出なければならない。みんなにも参加させなければならない」と「べき思考」を働かせ、トラブルメーカーになった。「周りの人は相当めんどくさかっただろうなと思います。申し訳ないです」。
 
1年生のときから男女交際をしていたが、いまから思えば相手にもASDの傾向があった。「いつのまにか一緒に住むようになってました。気づいたらそうなっているということが多い人生です」。時間が経つと、「あれは好意の告白だったのかな」などと思いあたる。
 
アルバイトをしたが、遅刻して首になった。お釣りをまちがえて、レジの勘定が合わないことがあった。両親が教師だったため、教員免許の取得をめざしたが、教育実習に行くと、黒板に書いた漢字がたびたび間違っていた。指導教員に何度も叱られ、自信を喪失した。
 
バブル崩壊後の就職氷河期。しかし紹介を受けて、大学病院の教授秘書に収まった。「秘書は向いてないなと思ったんですけど、断れなかったんです」。
 
空気を読んで率先して動くことができない。教授の指示は明確で理解しやすかったが、電話の応対などの雑務ができなかった。ほかの秘書たちとの関係はギクシャクし、半年くらいで鬱状態になった。土日のは寝たきりの状態。1年ほど務めたが、だんだん仕事に行けなくなった。当時はまだ精神科に行くハードルが高かった時代。大学病院に務めていたのに、周りに広野さんの精神状態について指摘する人はいなかった。「いまやったら、発達障害やって指摘してもらえると思うんですけど」。
 
ずっと交際していた恋人と「できちゃった結婚」をして退職。関西に移住したが、関西弁が聞きとれなかった。鬱は深まり、自律神経が狂って寝たきりになり、実家に戻った。「引きこもり主婦でしたけど、当時は引きこもりという言葉も広まっていませんでした」。
 
いろいろ調べて、自分はパーソナリティ障害ではないかと自己診断をくだした。親のせいだと考え、喧嘩した。「悪いことをしてしまいました」。育児に苦戦していたが、ふたり目の子供ができた。「わけが分からないうちに子どもがふたりになってました。赤ちゃんは好きなのでかわいかったです。でもずっと泣いていると、どうしたら良いのか分からなくて、私も泣いてました」。
 
いとこの息子がADHDの診断を受けると、親戚一同がそれを話題にした。1997年、日本でADHDの概念を初めて広く知らしめた書籍、司馬理恵子の『のび太・ジャイアン症候群』が刊行されていた。親がその本を買ってきて、家族で読み、「ああ、私もこれだったんだ」と感じた。しかし発達障害は子どもに特有の問題と誤解されていた時代。現在の自分の問題とうまく繋がらなかった。
 
2000年、サリ・ソルデンの『片づけられない女たち』が刊行された。この本で初めておとなにもADHDがあることを理解した。病院に行って診断を受ければ良いことが分かったが、当時の日本には、発達障害の診断を出せる医師がほとんどいなかった。
 
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自分と同じ当事者と会話をしてみたいと考えた広野さんは、北海道を拠点としたNPO法人「大人のADD/ADHDの会」に繋がった。北海道に遠征して、関西に診断してくれる病院がないか情報を集めようとした。発達障害の自助グループが、日本にまだほとんど存在しなかったから、関西から3回も北海道の会合に通った。そのころは自分で主催するという考えがなく、「新しい自助グループが東京にできた、名古屋にできたなどと聞くと、そのたびに遊びに行ってました」。
 
仲間が増えて、インターネットの掲示板などで交流をしていたが、近くで仲間が欲しいと感じた。関西にも自助グループができたが、仲間内で揉めて潰れた。そこでようやく自分が新しい場を作ろうと決意し、2002年に世話人として「関西ほっとサロン」を立ちあげた。北海道にあった自助グループの関西支部という位置づけ。だが、現在存在する発達障害自助グループのなかでは、最古のもののひとつだ。
 
月に1回の自助会運営を続けていたが、家庭生活では夫のDVがひどくなり、2006年に別居。「殴られて顔に青あざができても、自分が暴力を受けていることに気づかないんです。仲間に話して、裁判のために写真に取っておくべきだと言われました。自分では、置かれた状況が客観的に分からない。仲間のおかげで、なんとかしなければいけないと気づきました」。
 
北海道の本部は揉めごとが多く、代表者は霊能研究を始め、仲間の除霊をおこなった。広野さんは理事のひとりという役回りだったが、「関西で新しい団体を作るね」と伝え、北海道の組織を離れた。2008年に任意団体「発達障害をもつ大人の会」(略称はDDAC、通称は「ダダック」)を立ちあげ、代表に就任し、関西ほっとサロンをその法人の下に移す。2010年、DDACはNPO法人として認可された。
 
現在、DDACは関西ほっとサロンの運営のほかに、ピアリーダー研修を主催している。発達障害の自助グループを運営する人、運営したいと思っている人に、ピアサポートのさまざまな知識を与える企画。私も受けたことがあり、きわめて刺激を受けた。リーマンショック後には、大阪府からピアワークサポート事業を始めとして、雇用対策事業などを4年間継続して受託した。発達障害者が、自分たちの困りごとを解決するためにミーティングを開催するという内容だった。
 
その経緯から、2013年に「発達凸凹100人会議」を立案。「ワールドカフェ」の形式で、100人の発達障害者が「理想の職場環境」について考え、意見を交わす。メディアからの注目が大きく、DDACの最大のイベントだ。広野さんはテレビやラジオに出演するようになり、知名度が上がった?。
 
2021年に、DDACの10周年記念イベント「発達凸凹100人会議 第2弾」。全6回にわたってゲストを招き、「デモクラティック・サポート」「超インクルーシブ教育」「ダイバーシティ就労」「ソーシャル・インクルージョン」「エンパワメント・グループ」などについて学び、意見交換をした。私もオンラインで参加したが、学びの大きな企画だった。
 
広野さんに「発達障害の自助グループを、どのようなものと考えていますか」と尋ねると、「自分を知るとか、視野を広げるとか、そういうことができる場所だと思っています。発達障害は、発達しない障害という意味ではありません。自助グループは私たちなりに発達していける場所。やればやるほど、楽しくなっていきます」と答えてくれた。
 
DDACをやってきて良かったことはと尋ねると、「どんな人間でも回復できる。変わっていけるというのを見ることができるのが楽しいですね。本人の力で、どんどん良い方に変わっていけるという実感があります。それが嬉しくてやってます」と答えてくれた。
 
広野さんは熱っぽく語る。「発達障害が珍しいと見なされない時代になってきました。これまでよりも広い視野で考えなければならないと思っています。たとえばグレーゾーン。診断はされないけど苦しんでいる人がいます。それから社会モデルのこと。環境に自分を合わせようとして、私たちは病気を罹患してきました。環境を整備することで、世の中を良くしていこうという方向を、いまはめざしています」。
 
さらに語る。「この先の世の中にプラスになることをやっていきたいです。変化が大きい時代に住んでいて、私たちがいるからこそできることがあると考えています。脳の多様性(ニューロダイバーシティ)です。これまでの障害者団体は世の中を啓発して、自分たちを助けてくれと求めてきました。でもその枠を超えて、さまざまな人の違いを受けいれ、認めあえる社会を作ることが、私たちの大きな目的です。自信をなくしている仲間が多いですから、一緒に取りくんでいけるとうれしいです。地道に仲間をひとりでも増やすことが、世の中を変えていく近道だと思っています」。
 
広野さんはこれからも、発達界隈の大黒柱の1本として、仲間(私含む)とともに歩んでくれるだろう。

(横道誠「発達界隈通信!」第19回了)

 

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