第16回 いままで大嫌いだった自分のことが、大好きへと180度変わりました【宮原秀樹さん】

第16回 いままで大嫌いだった自分のことが、大好きへと180度変わりました【宮原秀樹さん】

2021.5.25 update.

横道誠(よこみち・まこと) イメージ

横道誠(よこみち・まこと)

1979年生まれ。京都府立大学の准教授で、専門はドイツ文学研究・比較文化研究。子どものころから「稀代の変人」として、生きづらさに苦しむ。能力の凸凹(でこぼこ)が激しかったが、研究能力に秀でていたため、長年医学的な診断を受けずにいた。だが40歳のときに二次障害を起こし、41歳でついにASD(自閉スペクトラム症)とADHD(注意欠如・多動症)の診断を受ける。
今年5月に上梓した当事者研究の本(ほぼ自伝?)の『みんな水の中』(シリーズケアをひらく、医学書院)が初の単著単行本。

Twitterアカウント:
https://twitter.com/macoto_y(研究者・著者として)
https://twitter.com/macoto_1(自助グループ主催者として)

 

宮原秀樹さん(以下、通称「みやさん」)は46歳、滋賀県在住。3年前にADHD(注意欠如・多動症)とASD(自閉スペクトラム症)の診断を受けた。

 

福岡で生まれ育った。父が高卒、母は大卒で元小学校教員。ともに教育熱心で、親に褒められることは少なかった。怒られる、叱られる、叩かれる。「両親とも、自分の子供を優秀に育てようと必死だったようです」。夏休み明けに、幼稚園で「日焼け賞」とみんなの前で褒められたことが嬉しかった。

 

母親は「差別はダメ、差別は悪」と言い、自分にもそう考えるように求めたが、言動は矛盾していた。「幼稚園に行く子と保育園に行く子がいるのは、どうして?」と問うと、「お金がない人は保育園に行くのよ。うちはお父さんが稼いでいるから幼稚園」との返答。「誰々ちゃんのお父さんは、うちのお父さんの会社の子会社で働いている。うちよりもお給料が少ない」「あそこに住んでいる誰それは○○だから」などとよく言っていた。

 

小学校に入ると、向かいの家に住んでいた幼馴染が社交的で、「金魚のフンみたいにくっついてました」と語る。野球、鬼ごっこ、ファミコンなどをやった。「でもコミュニケーションのとり方?はまったく分かりませんでした」。

 

親は勉強を強制し、クラシック音楽のコンサート、美術館などの文化的な場所によく連れていかれたが、みやさんはあまり興味が湧かなかった。水がとても苦手だったので、それを克服するために、プールに通わされた。ピアノ、エレクトーン、英語、パソコンも「僕がやりたいというより、やらされた」。やりたいことは許されず、母のコントロール下に置かれた。「母の理想を押しつけられていました」。

 

夏休みや冬休みになると、朝10時に友だちが遊びに迎えに来たが、母が「ごめんね。うちの子、勉強終わってないから」と追いかえした。学校の宿題が終わっても、問題集のノルマがあった。「おかげで成績は悪くなかったのですが、子ども同士のコミュニケーションを学べなかったのは、自分の人生にとって大きかったと感じています」。

 

母親は「私は働いてないから、PTAの役が回ってきて大変。いつも押しつけられる」となぜか嬉しそうに言っていた。親の差別的な言葉を頻繁に浴びたことで、みやさんも自然と差別的になったと語る。「ASDの白黒思考も関係があるかもしれません」と言う。

 

学校の勉強には「嘘がない」と感じた。はっきりした答えがある。しかしコミュニケーションには、最適解はあっても正解はない。それがみやさんには理解できなかった。喫煙所ではないところでタバコを吸っている人を見かけると、毅然と注意した。正しい行動のように見えるが、「自分の価値観で人を否定することばかりでしたね。友だちがまったくできませんでした」と振りかえる。

 

中学校ではサッカー部に入った。高橋陽一のマンガ『キャプテン翼』の全盛期。「うまくボールが蹴れませんでした。素質がなくて」。いじめも経験した。いじめられる理由はさっぱり分からず、「部活を辞めるのは落ちこぼれだ」と悩んだ。体育の時間に、走り幅跳びで陸上部の部員よりも良い成績を残し、賞賛を浴びた。同級生から陸上部に勧誘されたが、顧問の先生に入部希望を伝えにいくと、「途中でサッカー部を投げだすような生徒は入れられない」と断られた。みやさんは勉強にだけ打ちこむようになった。成績優秀だが、提出物が苦手なみやさんは、美術の成績がいつも2だった。

 

幼馴染の友だちとは、中学3年まで濃密な時間を過ごした。しかし、彼もみやさんをいじめる側に回った。「ぼくは友だちって思っていたけど、違うんだ」と傷ついた。ところが、今度はその幼馴染がいじめのターゲットになって、「ざまあみろ。僕がいじめられた気持ちが分かったか」と思った。3年生になり和解したが、友だちと呼べる関係ではなく、どこかぎこちなかった。

 

内申点が低く公立高校は不合格、私立の進学校に入学。幼馴染は工業高校へ。「はっきり言って見下していました。でも相手のほうが社交的でモテる。悔しかった」。そんな時に父親が言った「工業高校に行くような子と、付きあう意味あんのか」というセリフの、差別的な語り口に衝撃を受けた。「え?」と尋ねかえした。父も母も、人格よりも肩書きや年収で人を評価する。「でも、僕もそうでした」。内面化された自分の差別意識を持てあましていた。

 

1年生のときは勉強を頑張り、2年生から特進クラスに入れた。「うっすらとした付き合いはあっても、友だちと呼べるような関係は築けませんでした」。もとが男子校で、共学になってからも「99%男子学生」だったから、体育祭のときに、外部から訪れた女子高生を誘ってフォークダンスをやったことが強烈な記憶として残っている。国立大学に落ち、合格した京都の私立大学に進学した。「浪人すれば東大や京大も目指せる」と助言されたが、年下と同級生になることは、みやさんの価値観では決して許されるものではなく、浪人はしなかった。

 

大学の理工学部で物理を学んだ。サークルには入らなかった。バイトに明け暮れ、バイト仲間との緩やかな関係は築けたが、「真の友人と呼べる人はいなかったです」。居酒屋で1歳年下の女子短大生と出会った。初めての男女交際。「バイトしてデートしてゲームして、バイトしてデートしてゲームして」。授業はあまり理解できなかった。就職活動をせず、大学院に進学したが、3か月で中退。

 

「僕は社会の不正義に憤りを感じていたので、社会的弱者を救いたいと強く感じ、弁護士になりたいと思いました。今考えると正義感が強いというよりは正義を振りかざしていたんだと思います」。司法試験の予備校に通いはじめ、司法試験を2回受験したが、不合格に終わった。フリーターになり、匿名掲示板ウェブサイト「2ちゃんねる」の沼にハマった。「左寄りの人間からネトウヨに転向しました」とみやさん。

 

小林よしのりの「ゴーマニズム宣言」に触発され、慰安婦問題、拉致問題などで朝日新聞を始めとするマスメディアに対して、「自分は反日思想に洗脳されていたんだ」と怒りが湧いた。NTTのサービス「テレホーダイ」を利用してインターネットに接続し、政治系のスレッドに張りついて、書きこんだ。朝日新聞や共同通信に電話して、自分なりの「正論」をぶつけた。

 

ニートや派遣社員を経験。「20代、何してたのかなって思いますね。出口が見えなかった。それなのに彼女は見捨てずにいてくれた。感謝しかありません」。30歳間近になり、このままではいけないと考え、就職活動をしたが、学歴があっても職歴がない。「一体きみ、何をしてたの?」と「やばい物件」扱いされる面接が続いた。「なんとか入った会社はバリバリのブラック企業。詐欺まがいのビジネスモデル。でも上手に洗脳されて、営業成績をあげました」。しかし3か月ほどすると、人を騙して金を稼いでいること気づいた。「ずっとここにいたら、僕は人としてダメになる」と思い、退社した。

 

NTTの電話の宅内配線をやり、1300円の時給が嬉しかったが、正社員ではないからボーナスは出ないし、福利厚生も悪い。恋人との関係を考えると、このままでは良くないと思った。筆記試験だけで評価される会社に29歳で滑りこみ、なんとか正社員として働くことができた。「卒業してから7年間、とてもつらい時間を過ごしました」。

 

20歳から9年付き合った彼女と就職前に籍を入れ、新婚旅行に行き、メキシコのピラミッドに登った。赴任先は、地方の金融機関。仕事で何度も失敗をした。「いろんなことが脳のなかをめぐり、ごちゃごちゃしてました」。仕事内容を営業に移した。「人と喋るのはもともと苦手だったのですが、失敗してフィードバックをもらい、振りかえって、素直に改善して、パターンを見つけて上手になっていく。それがSST(ソーシャル・スキル・トレーニング)になっていました」。

 

ある商品の売り上げで全国2位の成績を記録。賞賛され、とても嬉しかった。年収が上がるたびに幸せを感じた。「そんな大学を出てるのに、こんな会社でもったいない」とよく言われた。そのたびに傷ついた。

 

役職が上がると、部下の指導なども担当するようになり、マルチタスクに振りまわされた。優先順位がつけられない。自信があった営業も、うまくできなくなった。新しい上司がとても厳しい人で、さんざんパワーハラスメントを受けた。名前を呼ばれるたびに「ああ、また怒られる」と毎日パニックに陥っていた。

 

そんなある日、その部長から鬱ではないかと指摘され、通院を勧められた。心が疲れていたみやさんは、「なんて良い人なんだ」と思ったという。しかし精神科に行くなんて「人間として落ちこぼれ、最低」と考え、「絶対に行きたくなかった」。

 

実は働くうちに、自分がADHDだとは気づいていた。「問題なく働けてる」と判断していたが、それがパワハラを受けて、働けなくなっていた。借金玉の『発達障害の僕が「食える人」に変わった すごい仕事術』(KADOKAWA)から「ADHDにはコンサータっていう夢の薬がある」という情報を得て、覚悟を決めて病院に行った。

 

主治医は「眼を見て話せるからASDの特性はない」と言ったが、みやさんは釈然としなかった。眼を見て話すのは得意ではなく、営業職で培った技術だからだ。WAIS-III知能検査を受けると、主治医は「総合的に判断すると、ADHDだけでなく、ASDの特性もありますね」と診断した。診断を受けたあと、娘2人にも自分と共通する特性があると気づき、検査を受けさせて、診断がおりた。

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発達障害に詳しい精神科医、本田秀夫の本で自己理解を深めたみやさんは、一歩踏み出そうと自助グループに参加した。診断を受けていたみやさんだが、「発達障害者ってやばいヤツらなんだろうな」と、まだ差別意識が抜けなかった。しかし、自助会に参加して眼が覚めた。さまざまな自助グループに参加し、いままで知らなかた自分のことがだんだんと分かってきた。

 

2019年3月、一般社団法人異才ネットワークが、大津で発達障害者のための講演会を開催した。そこでは当事者たちが自分の特性について語り、笑いをとっていて、「全部が全部、感動しました」。しかし、発達障害児の親の会は定期的に開催していても、おとなの発達障害の専門の会はない。代表から「みやさん、おとなの自助会やってくれない?」と言われ、2019年6月、異才ネットワーク内に発達障害自助グループ「IROIRO」を立ちあげた。

 

初めて開催したときのことが、みやさんには忘れられない。

 

ある女性が、アルバイトで給料を貰えないことに悩んでいた。それに対して、別の当事者が労働基準法違反だ、訴えないのはおかしいと正論をぶつけた。みやさんが彼女に「なぜ給料を貰えないのですか?」と問うと、「社長が私の友だちの友だちで言いづらくて」と答える。みやさんは全員に、「言いたいことを上司に言えなかった経験がある人はいませんか」と尋ねた。

 

さまざまな意見が出て、彼女の悩みの本質は、友人関係を壊さないために訴えるのを我慢するか、それでも給料を払ってくださいと強く訴えるか、その二者択一のあいだで揺れていることだと明らかになった。

 

決断するのは彼女自身。そもそも訴えることができていたら、こんなことで悩まない。誰かが当事者に、自分の正論を押しつけるのは間違いだという大きな気づきがあった。彼女も一連のやりとりを通じて、清々しい表情を浮かべていた。

 

発達障害の自助会は他者に助言する場所ではない。選択肢を増やす場、思考を整理する場。自助会は他者の発言を参考にして、自分で気づいて変わっていける場所。すなわち当事者研究会なのだ。この成功体験での興奮が、みやさんをますます自助グループに入れこませた。

 

みやさんは、会社で働くうちにファイナルシャルプランナー1級の資格を取得していたが、「過去のぼくのような人に気づきを与えたい」、と周りの人に熱く語っていたところ、複数の人からキャリアコンサルタントが向いているとの指摘を受け、勉強をして受験し、合格。その過程でアドラーの『嫌われる勇気』を読みなおし、「課題の分離」の思想に深く共感した。

 

みやさんは語る。「僕は発達障害の凸凹の凹の特性を努力でなんとか人並みにしようとずっと努カしてきました。でも成果が出ず否定ばかり、自分のことが大嫌いでした。診断を受け、いろいろ学ぶと、僕の努力不足のせいではなく生まれつきの脳の偏りのせいだと分かりました」。

 

「ぼくは無駄な努力を43年も続けてきたんだと気づいたときに、自分のことがとても愛おしく感じました。自然と自分で自分の頭をなでて、自分で自分を抱きしめました。そしたらいままで大嫌いだった自分のことが、大好きへと180度変わりました」。

 

「親に褒められないから、他人に褒められるのが嬉しかったんでしょうね。日焼け賞、走り幅跳び、塾や学校で褒められた経験、仕事で全国2位の成績。記憶に強く残っている体験は、他者に褒められたことばかり。43年間も他人の評価をつねに気にしながら生きてきました。だから他人から評価を貰えると嬉しい。他人の評価を貰うために必死に努力してきた。他人から評価を貰えないと苦しかった」。

 

「いまは他人の評価ではなく、自分の評価で生きています。だからストレスがなく幸せ。他人軸から自分軸へと移行しました。これがぼくが、43年間友だちゼロから、自分を大好きに変われた理由です」。

 

生まれかわったみやさんは、中学3年生以来、疎遠だった幼なじみと、昨年30年ぶりに飲みにいった。そこで、いままで感じていた思いを互いにぶつけあった。「30年ぶりに本音で語りあえる仲になりました」。もう「金魚のフン」ではなく「親友」だ、とみやさんは喜んでいる。

(横道誠「発達界隈通信!」第16回了)

 

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