第13回 いま少しでも生活が楽になれば良いと考えること【借金玉さん】

第13回 いま少しでも生活が楽になれば良いと考えること【借金玉さん】

2021.5.14 update.

横道誠(よこみち・まこと) イメージ

横道誠(よこみち・まこと)

1979年生まれ。京都府立大学の准教授で、専門はドイツ文学研究・比較文化研究。子どものころから「稀代の変人」として、生きづらさに苦しむ。能力の凸凹(でこぼこ)が激しかったが、研究能力に秀でていたため、長年医学的な診断を受けずにいた。だが40歳のときに二次障害を起こし、41歳でついにASD(自閉スペクトラム症)とADHD(注意欠如・多動症)の診断を受ける。
この5月に上梓した当事者研究の本(ほぼ自伝?)の『みんな水の中』(シリーズケアをひらく、医学書院)が初の単著単行本。

Twitterアカウント:
https://twitter.com/macoto_y(研究者・著者として)
https://twitter.com/macoto_1(自助グループ主催者として)

 

借金玉さんは35歳、東京都内在住。ADHD(注意欠如・多動症)と双極性障害を診断されている。

 

札幌出身。幼稚園に通っていたころのことは、よく覚えていない。小学生のときから、さまざまなことで困りはじめた。クラスメイトになじめない。道具箱に必要なものが見当たらない。移動教室を把握できない。下校の際に、自分だけランドセルを教室に置きわすれる。「多動で不注意の子どもに起きることは、なんでも起きていた気がします」。

 

3年生のときから卒業するまで、学校にほとんど通えず、よく暴れた。4年生から断続的に閉鎖病棟に入った。初めは鬱病と診断されたが、のちに双極性障害と診断されなおした。

 

勉強は不得意ではなかった。ジュール・ヴェルヌの『十五少年漂流記』、ダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』、トール・ハイエルダールの『コンチキ号漂流記』などの冒険ものを好んだ。読書以外の趣味は料理だった。

 

公立の中学校に進学。文系科目は得意だが、数学は苦手だった。「理屈はわかるけど、手が動かないというか」。体が大きくて、部活で柔道をやった。いじめられたこともあるが、深刻化しなかった。「子どもの世界は残酷なんで、格闘技ができて体が大きかったのは運が良かったです」。

 

不良グループが仲間に入れてくれて、ありがたかった。彼らは「ぐれる」という集団行動をやってるのだと気づき、歩調を合わせることを学んだ。最初の著書(後述)で示した、職場マナーを「茶番」と見なしつつも「部族の掟」として受けいれるライフハックの原体験だ。梶井基次郎の小説を読み、いまでも大好きだという三島由紀夫の作品にのめりこんだ。

 

高校は家からいちばん近いところを選んだ。「進学校でもなければ荒れてるってわけでもない」高校では、「ギリギリでもなんとか通う」ことを学ぶ。柔道を続けたものの、腰を壊して引退。バイクに乗り、タバコを吸い、教師を蹴飛ばして何度も停学になった。留年の危機は何度もあった。リチャード・ブローティガンやアルベール・カミュを読んだ。喫茶店でたむろしていた左翼崩れと語りあい、マルクスの思想書も読んだが、理解はできなかった。

 

通っていた高校から大学へは1割も進学しない。しかし3年生のときに受験してみようと考えた。まともな人生を歩むにはどうすれば良いか。「2ちゃんねる」では、公務員になるのが正解と語られている。教員になろうと決意し、地元の国立大学を受験し、運良く合格。

 

だが、教育学部に入ってすぐに気がついたのは、同級生は学校が大好きな人たちだということだった。自分は大嫌いな側。これはダメだ、とあっという間に理解して、1か月も通わずに退学する。実家に居づらくなったため、友だちとシェアハウスをして、働いた。2年のあいだ生活は荒廃し、睡眠薬依存で入退院を繰りかえした。

 

やがて「心を入れかえました」。半年ほど勉強して、早稲田大学に合格。文系科目だけで受験できるのが功を奏した。祖父母に頭を下げて、学費を得た。大学生活は楽しかったと振りかえる。たくさん本を読んだ。特に夢中になったのはポール・ド・マンによる文学作品の脱構築。ジョナサン・カラー、ウンベルト・エーコの文学理論。ポール・リクールの物語論。サルトルとレヴィ・ストロースの構造主義に関する論争。

 

料理店でアルバイトをして、山ほどの失敗を積みあげもした。「出勤日を忘れて行かなかったなどの話は無限にあります」。自分の困りごとをインターネットで検索して、ADHDだと悟った。発達障害の日本での認知度はまだ低かったが、「2ちゃんねる」ではすでに、罵倒混じりの言説が流布していた。双極性障害の治療のために通っていた精神科に相談したが、「たぶんADHDだろうけど、どうしようもないよ?」と言われた。当時はリタリンが規制された直後で、ADHD処方薬は存在していなかった。

 

文学好きの反面、実用主義者としての顔もあり、「文学的テクニックで飯を食う」という野心を抱いていた。特に演説の文学的技法や詩論を好んだ。いかにして聴衆や読者を揺さぶるか。その甲斐もあって就職活動はうまく行き、大手の銀行に内定して「奇跡」と言われた。

 

働きだすと、仕事ができなかった。帳簿を書けず、転写で金額の桁を間違えた。1年半ほど頑張ったが、改善できる可能性はないと諦め、退職。「職場のレベルが高すぎました。分不相応なところに入ったんですよね」。鬱が酷くて、趣味の料理ができなくなった。酒ばかり飲んだ。アルコール依存症の入り口を踏み越えたことを自覚したのが退職の契機だった。

 

組織でダメなら起業すれば良いと思いを固める。躁転を活かしたエネルギーで出資者を募ったところ、リーマンショック後の不況だったが、それだけに出資者は見つけやすい状況。飲食チェーンと輸入貿易を展開した。勢いがあり、3、4年は順調で、店舗は3軒まで増えた。

 

だが、借金玉さんにマネージメント能力は備わっていなかった。組織のガバナンスもめちゃくちゃだった。スタッフが抜けると、店が止まった。内部の揉め事が表面化した。その後、逆転勝負を賭けた貿易で失敗。Twitterで「経営無理太郎」を名乗り、愚痴を呟いていると、フォロワーが増えた。

 

会社は派手に潰れた。銀行融資を肩代わりしてもらい、2000万円の借金を抱えて無職になった。しかしこのくらいの負債で「借金王」を名乗るのは口はばったく、Twitterで「借金玉」を名乗ることにする。Twitterの呟きがKADOKAWAの編集者に注目されて、本を書かないかと持ちかけられた。「借金を返すにはなんでもやります、と答えました」。

 

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ブログを始めて、1か月間に〇〇PV以上(←注:借金玉さんによる自主規制)を出せたら書籍化だと伝えられ、持てる全力を発揮する。出し惜しみする余裕がなかった。書籍化が実現。2018年に刊行され、現在までに7万部を売りあげた『発達障害の僕が「食える人」に変わった すごい仕事術』。借金玉さんは語る。「勢いがあり、荒い。実用書なのに自伝的で、文学的な面もある。おもしろいと言えば、おもしろい。でも分かりにくく、うまく伝わらない面もあります」。

 

担当編集者を信頼して、彼が転職した先のダイヤモンド社から2020年に2冊目を出した。『発達障害サバイバルガイド 「あたりまえ」がやれない僕らがどうにか生きていくコツ47』。すでに9万部を売りあげている。借金玉さんは語る。「ファンからはおもしろくないって言われました。でも読んですぐに具体的に役に立つ。分かりやすい。1冊目で取りこぼした客のためになるように書きました。書けるものをすべて出しています」。

 

作家としてデビューしてから、まだ3年ほど。しかし、いまでは発達界隈でいちばんの売れっ子。新宿ロフトプラスワンで0時開始の深夜トークショーをやった。『プレイボーイ』の連載を含めて、年間100本くらいのコラムを書くようになった。同誌では「料理対決」も体験。千葉の珈琲専門店 Mustache Coffee とコラボして、ブレンドコーヒー3種を発売した。Vtuberのディープウェブ・アンダーグラウンドとYouTubeで対談した。小説の依頼が来るようになった。自己啓発系の著者から、多様な内容を扱える作家へと脱皮を図っている。

 

「読者に伝えたいことは」と尋ねると、「いま少しでも生活が楽になれば良いと考えること。完全な解決を狙わないで。すべてを治そうとしても無理がある」との答え。

 

さらに語ってくれた。「いまは休むときって思ったら、その判断は正しいから、無理してはダメ。みんな無理しなくてもいいときに頑張って、本当に頑張るべきときに頑張れなくなってる。僕自身もそんな失敗をする。もうダメだ、とぐるぐるのたうち回るなら、さっさと寝よう。体に気をつけて寝る」。

 

この原稿の確認も、締め切りに追いつかれそうになりつつ進めてくれた。本が売れても「やはり発達障害者だ」と感じる。苦労は絶えない。「闘争になると我を忘れてしまう」という大きな欠点の克服を、これからの課題と考えている。

 

借金玉さんは最後に言っていた。「この先どうなるのかは何にも考えてない。また起業して挽回したいけど、破産で終わるような気がします。それでもやっていきます」。

 

借金玉さんのしぶとさに、私も励まされてしまった。

 

(横道誠「発達界隈通信!」第13回了)

 

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