第7回 自分に対するイメージが流動的です【水蜜桃さん】

第7回 自分に対するイメージが流動的です【水蜜桃さん】

2021.4.23 update.

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横道誠(よこみち・まこと)

1979年生まれ。京都府立大学の准教授で、専門はドイツ文学研究・比較文化研究。子どものころから「稀代の変人」として、生きづらさに苦しむ。能力の凸凹(でこぼこ)が激しかったが、研究能力に秀でていたため、長年医学的な診断を受けずにいた。だが40歳のときに二次障害を起こし、41歳でついにASD(自閉スペクトラム症)とADHD(注意欠如・多動症)の診断を受ける。
上梓したばかりの当事者研究の本(ほぼ自伝?)『みんな水の中』(シリーズケアをひらく、医学書院)が、初の単著単行本。

Twitterアカウント:
https://twitter.com/macoto_y(研究者・著者として)
https://twitter.com/macoto_1(自助グループ主催者として)

 

水蜜桃さんは21歳、関西在住。広汎性発達障害と解離性障害を診断されている。

 

幼稚園児のころから集団生活は苦手で、ひとりで遊ぶことを好んだ。友だちと遊ぶときも、同年齢の子どもたちとの関係がうまく結べず、年下の子と遊んだ。「みんなより発育が遅れていたんでしょうね」と振りかえる。

 

あるとき、水蜜桃さんにとっての「人生最大の出来事」が起こった。幼稚園で飼っているウサギが餌の葉を食べているのを見たのだ。「この子はものを食べるんだ。生きているんだ」と思った。それまでは家族が食事をしていても、何を意味しているのか分からなかった。自分の周りにいる人たちも、みんな生きているんだと理解した。油粘土でウサギを作った。

 

小学校では、先生たちがよく配慮してくれた。窓側で日差しが明るすぎると言って、席を廊下側に変えてもらえた。座っていられず、体がムズムズして動きたくなるため、席を立つ。誤魔化すために、勉強が分からなそうな友だちのところに行き、あれこれと教えて、席へ戻る。先生は咎めない。「発達障害にすごく理解のある環境だったのですね」と指摘すると、「いま思えばそうなんです」との返答。

 

引きつづき、ひとり遊びを好んでいた。女子グループのどこにも入れず、いろんなグループを渡りあるきながら、同級生と交流していた。「東海地方ののんびりした地域で育ったので、許されていたのかなと思います」。

 

大きな音や高い音が苦手だったが、誰でもそうだと思っていた。先生が授業をしていても、周りがざわざわしているので音声を抽出できず、黒板の文字や友だちのノートを羅針盤として授業を受けた。会話でも困り、簡単な読唇術を覚えた。「いま思うと当事者研究をやっていたのかな」。

 

本が好きで、ファンタジーやミステリーを好んだ。特に好きだったのは、くぼしまりおと佐竹美保の「ブンダバー」シリーズ。「しゃべる猫と踊るタンスがおもしろくって」。そして「ハリー・ポッター」シリーズ。他者と会話をしても、意味がよく分からなかったので、小説から人の心の仕組みを学んだ。これも当事者研究だったと考えている。

 

自営業を営んでいた父が仕事をやめて、水蜜桃さんの境遇は暗転した。「父は発達障害の特性が強くて、集団生活に向きません。再就職しませんでした」。水蜜桃さんは肉体的にも精神的にも暴力を受けた。ネグレクトもあった。家計のおもな担い手になった母親は、仕事づけの日々。そうして水蜜桃さんは、中学年のときから解離し、人格が分裂しはじめた。絵を書くのも好きで、ウサギや想像上の生き物を描いた。

 

中学校では、生物の授業が特に好きだった。太宰治や梶井基次郎をよく読んだ。ボールペン画に入れこみ、かなり細かい線画を描いた。題材はやはり、ウサギや想像上の生き物。植物の絵も描くようになった。

 

部活動では、吹奏楽に打ちこんだ。しかし聴覚過敏から音を拾うのが難しく、周囲の動きを観察しながら演奏していた。「難聴の音楽家、ベートーベンみたいですね!」と感想を述べると、「ふふふ」と笑った。

 

中学時代には人格交代が激しく、そのため主人格の記憶がとても少ない。荒れている人格が出てきたときは、「給食を友だちにぶっかけました」と言う。「急に変貌する人。どうして?」と不思議がられた。

 

高校は進学校で、勉強が忙しかった。女性アイドルグループのゆるめるモ!のファンになり、いまでも応援している。季節の変わり目の休日、自分の服装だけがおかしいと気づく。気温の変化が分かりにくかった。周りの服装の観察をして、自分も真似た。「あれも当事者研究でした」と語る。

 

中学校までと異なり、高校では合理的配慮がなされなかった。音声や光への過敏、授業中にときどき席を立つことは、理解してもらえない。「かなり困りました」。1年生のあいだはなんとかやっていたが、2年生の途中から授業に出られなくなり、保健室に通った。

 

部活動では吹奏楽を続けていて、「それをやるために学校に通っていた感じです」。だから、部活動を引退したあとは本当に困った。授業に集中しなければいけないのに、付いていけない。「いっぱいいっぱいになっていて、高3の初めから不登校になりました」。

 

春から夏まで、ほとんど寝たきり。父親からの虐待がエスカレートして、食事が出なくなった。低血圧と貧血に悩み、解離も進行した。母親に連れられて、病院へ行った。

 

そこで、ある精神保健福祉士と出会う。毎週1回、親身に相談に乗ってくれるようになった。「家を出たほうがいいよ。大学に入ろう」との助言を得た。秋ごろから受験勉強をした。高校は3年生の冬に退学。高認(高等学校卒業程度認定試験)に合格し、関西の大学に入学する。母親に頭を下げて、学費を捻出してもらった。

 

虐待の経験から児童福祉に興味が湧き、精神保健福祉士との出会いもあって、社会福祉を専攻した。友だちができ、勉強もおもしろく、しばらく安定して、解離の症状がやわらいだ。しかし3か月目から解離は悪化。水蜜桃さんは「虐待の渦中抜け」による現象だと表現する。

 

大学に行けなくなり、障害学生支援課から様子を尋ねられて、精神科を紹介された。解離性障害の診断を受け、「自分にはそんなものがあったのか、とスッキリしました」とのこと。症状はなかなか改善しなかった。自分以外の人格が自殺未遂をする。そこで入院を余儀なくされた。

 

秋に入院し、閉鎖病棟に収容された。初めは自分が多重人格者だということに実感が湧かなかったが、入院しているあいだに、自分のなかにいる複数の人格との交流が生まれ、徐々に自分は適切な状況にいるのだと分かってきた。しょっちゅう記憶が抜けているのだが、交代した人格がノートに記録を残すようになったのだ。自分の別人格は7、8人もいることが分かった。彼らとの交換日記が生まれた。

 

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入院中に心理検査と知能検査を受け、発達障害の疑いがあると指摘された。退院し、半年のあいだ休学。そのあいだに発達障害の確定診断を受け、特にASD(自閉スペクトラム症)の特性が強いと説明された。

 

実家では父の暴力が母に向かうようになり、耐えられなかった母が別居を始めていた。実家のローンとは別に新しい住居のために費用が必要だから、これ以上の学費の援助はできないとの説明を受ける。解離性障害がある水蜜桃さんは将来が不安だったため、奨学金を受けても返済できないと考え、大学に復学せずに、退学した。「高校も卒業していないから、自分は中卒扱いになります、高認で大学入学はできたけど、働くときには高卒扱いにしてもらえないから、通信制の高校に入学しました」。1年のあいだ、足りていない単位を取得した。解離性障害と発達障害のための通院にかかる費用を捻出するために、アルバイトに励んだ。

 

大学に在籍していたときは、音楽系のサークルに入っていた。心理学専攻の男子学生と交際することになり、現在はその相手とふたり暮らしをしている。そんなある日、Twitterで当事者研究を知り、自分が人生でやってきたのはこれなのだと気づいた。いまはスキーマ療法に関心が高く、ピアグループの活動に参加している。参加者各自が自分の固定観念や自動思考を分析し、それを安全なものへと再構築するのだ。当事者同士で勉強会をおこない、LINEでコメントしあって、年に数回、関東や関西で対面のワークショップを開く。

 

発達界隈に対する感想を尋ねると、答えてくれた。「発達障害の自分というものへのイメージが、はっきりしている人が多いと感じます。自己観察がすごいです」。多重人格者の水蜜桃さんには、自分の全体像が分からない。「固まったものが部分的しかなくて。自分に対するイメージが流動的です」。

 

いま水蜜桃さんは、紙粘土でウサギを作るのが好きだ。

(横道誠「発達界隈通信!」第7回了)

 

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