第14回 なぜかうまくゆく

第14回 なぜかうまくゆく

2021.3.03 update.

中山求仁子(なかやま・くにこ) イメージ

中山求仁子(なかやま・くにこ)

2017年から18年まで、神奈川県のとある放課後等デイサービスの管理者として勤務。自身も幼少期から横綱級ADHDであり、現在は双極性障害も発症している。
大阪大学文学部美学科音楽演劇学コース卒業。高校時代よりモダンダンス、大学入学と同時に小劇場演劇を始める。2001年退団以降、人生自体が演劇のような双極 I 型ジェットコースターライフを送っている。韓国映画と韓流ドラマをこよなく愛す。

 

小3のルカ君は、いつも新しいことがしたかった。

そして、その一番になりたかった。

一番じゃないと腹立たしくて、悲しくなって、最後は泣く。

かけっこも、野球も、パソコンも、のこぎりも、すごろくも、英語も、楽器も、誰よりも熱心にやりたがり、勝つことにこだわる。でも、あおぞら園のほかの子たちは、たいていマイペースなのだ。勝負にこだわっているのはルカ君くらいだから、どうしても戦った感が足らない。だから、泣く。

 

私はそんなルカ君によく「そのうちうまくゆくさー」と言った。ルカ君の気持ちとは、まるでちぐはぐなことばだ。

だからルカ君は泣き続ける。Tシャツのボーダー柄が、しゃくりあげるたびに上下する。やがて涙がおさまる。薄い体の緊張が少しほぐれる。

うつむいていたルカ君が、下を向いたまま「すすすすべり台、いいいこう」と言う。

私はうなずいて、「うん、行こう」と言う。

そう私が言うか言わないうちに、ルカ君は走り始める。ルカ君を私は追う。私はルカ君の後ろ姿に、その頃の自分を思い出す。

 

その頃の話から始めたい。

 

■お座敷のクニ

 

私は体育が苦手だった。

最も苦手な種目は、跳び箱だった。

誰が考え出したのだろう。

当時はこころの底から、決して考え出してほしくなかった競技だと思っていた。

なかでも苦手なのは「閉脚跳び」という跳び方だった。

脚を閉じて、ついた手の中から脚が跳び出す。そんな跳び方を、どこの誰が考え出したのだろう。つくづく考え出してほしくなかった。

 

小学校の運動場の端に白い倉庫があった。

その手前に高い鉄棒と跳び箱用の砂場があった。

授業が始まると、自分たちで跳び箱の1段から6段までを砂場に沿って置いていく。

 

私は跳び箱授業のたびに、気分がたそがれた。

まるでヤル気なく跳び箱を見つめていた。

順番が来る。しかたなく助走を始める。

走って走って、そして跳び箱が目の前に来たとき、私はにわかに速度を落とす。そして、縦長の跳び箱の上のキャンバス地の、まんなかより少し向こう側くらいに手をつく。そして、スッと脚を折りたたみ、そのまま跳び箱の上に正座する。少し背中を丸め、おばあちゃんがほっこりお茶でも飲むかのように。

 

跳び箱の上に座る私の姿を見て、私の前で華麗に閉脚跳びを行ったYくんが、「おーい!! またかい、お座敷―!」と、大声で私をなじる。

そうなのだ。跳び箱の時間、私はクラスメイトから「お座敷のクニ」と呼ばれていたのだ。

 

列に戻って体育座りしていた私にYくんが言う。

「なあ、フツーに跳んだほうがラクやんけ。ちゃうけ? ようあんなちょうどに座れんなあ」

私は空を眺めながら、

「せやなあ。うちもそう思う」

となぜか他人事みたいに笑って返す。しかし、Y君は笑わずに言い捨てた。

「ほな、跳べや」

Y君はザリガニ取り仲間なのに、こういうときはヒジョーに冷たい。

「わかったよ!  跳ぶから。跳べばええんやろ!」と今度は仏頂面で言ってみる。

それから「もー!」というやけっぱちな気持ちで走るのだけど、やっぱり跳べない。またお座敷して、「あーあ」と脚をそろりと跳び箱の横から出して降りてくる。

「ああ、何度こんなことを繰り返さなきゃいけないんだぁ…!」と、私は空を仰いだ。

 

■チクリと痛みが……そのとき!

 

そんな日々が何年続いたろうか。

ある日のことである。

 

その日も跳び箱の授業と聞いて、肩を落とし、私はたそがれていた。

そして、一番端の低―い1段目に向かって、相変わらず無為に走り出していた。

すると、足の裏にチクリと痛みを覚えた(私の小学校は一年中裸足だったのです)。それでも走り続けると、「あれ?」と不思議な時空に入ったような気がしたその瞬間、我知らず、私は閉脚跳びで一段の跳び箱を跳び越えていた。

 

そのとき、私はたしかに、ついた手よりも脚が丸まって前にいく、あの微妙な感覚を覚えたのである。

 

――あれれ? なんだ、これ?

 

自分よりもまわりのクラスメイトが驚いている。

「お、お座敷ちゃうやん」

「お座敷が跳んでるでー」

「おおー、お座敷―」

というどよめきが起こる。

 

私は周囲をキョロキョロ見回す。みんなの騒ぎのほうが大きくて、いったい自分に何が起こったのか私にはさっぱりわからなくなった。

担任の先生が、「おー、次いこう、次」と2段目に誘う。

「えーっ?」と私は言いながら、なぜか体は夢のなかで動いているような流れる動きだ。そして、いつしか2段目に向けて走り始める。

2段目もクリアー。

クリアーなんてことばは、あまり私の人生には関係なかったので、わざわざ使わせてもらったが、なんと私はそのまま5段目までトトトトトと、閉脚跳びを連続成功させてしまうのだ。

5段目って、自分の背より高かったはず。なんてことだ!

 

クラスメイトは私の閉脚跳びに驚愕し、わらわらと集まり、跳び箱の横に座り始めた。私が一段跳ぶごとに、みんなも次の跳び箱の周囲へ移動。そのたびに大歓声が上がる。

ワイワイガヤガヤ言っているみんなに向かって、私はオリンピック選手のような気分で走り出す。

今はなき紺色のブルマーに白い体操服を入れて、おかっぱ頭の髪をなびかせ、私は走る。

顔は上気し、何かに憑かれたように「右、左」と脚と手を思い切り振る。走りながら、

 

――土踏まずよ、元気かい? クク。

 

と胸んなかで自分の足と楽しい会話を交わす余裕かましたりして、跳び箱にピタリのところまで迫って両足を、抜く。

跳ぶ瞬間、みんなのぎょろりとした白い目ん玉と白い体操服が、私を見つめているのがわかる。そのことにブルブルッときて、そして私はもはやⅤ字着地さえ成功させていた。

 

しかしである。今、こうして過去の華麗な技を文字にしようとイメージするが、どうしても最初にこうして、次にこうして、それから……ということが思い出せない。思い出せないので、「You Tubeでも見よっか」と思ったが、そうするとあの経験がつまらなくなってしまいそうで、やめた。

どうもあれは、一式一連の動きだったように思う。まるで、介護の名人の、相手との神業的一体感とでも言おうか。つまり、私は瞬間風速的に、常人にはまねのできない身体の域に達していた気がするのだ。

 

さて、5段目まで跳び進んでいた私。

6段の跳び箱の横で、先生が少し心配して「次も行くか」と言ったと思う。

私はそのときハタとおじけづき、「やめときます」と言っていた。

さすがに6段目はできないと思ったのかどうか、もう今では覚えがない。

そしてその後、私がその日をきっかけに閉脚跳びが常時できるようになったのか、それともまたお座敷に戻ったのか、まるっきり覚えていないのである。

つまり私の閉脚跳びは、この日をもって私の人生の記憶に金字塔を打ち立てるとともに、静かにピリオドも打ったのである。

 

しかし、それにしても、なぜ跳べたのか。なぜうまくいったのか。

私はあの経験をマジックだとかミラクルだとは思っていない。

むしろ、ミステリーだと思っている。

 

■It's a mystery

 

跳び箱からずいぶん話が変わる。

『ロミオとジュリエット』という有名戯曲ができる架空の顛末を、シェイクスピアの恋物語に仕立てた映画がある。『恋に落ちたシェイクスピア』(1998年)というこの映画は、血湧き肉躍る楽しいバックステージものとも言える。

バックステージものでは、「もうこれ以上芝居が続けられなーい」というとんでもないトラブルが起こる。それをなんとか解決しようとさらにドタバタが舞台裏で起こる。そして、そのトラブル・ストーリーには、わけ(問題)ありで、怪しげな登場人物が欠かせない。

 

芝居小屋の興行主ヘンズローは、ペストの流行で芝居小屋が封鎖され、旅芝居へ出掛けたまま帰ってこない座付き劇団を待つうちに借金がたまる。金貸しのフェニマンに拉致され、出来てもいない戯曲を近々芝居にするからそれで返済すると言い逃れる。しかし、ヘンズローがあてにしているシェイクスピアは、大スランプに陥っていた。一行も台本がないままにオーディションが始まる。そのオーディションにひとりの男がやってくる。

 

難発の吃音混じりにセリフを言おうとするのは、役者を夢見る仕立て屋のウォバッシュ。

どう見ても使えないウァバッシュに、ヘンズローは「合格!」と声をかける。ウァバッシュにも借金があったのだ。

役者がそろう。吃音の仕立て屋、パン売り、実は男装の女主人公等々、まさに寄せ集めの劇団だ。そこに旅から一座が帰ってきて、芝居の稽古が盛り上がると同時にシェイクスピアの恋が発生。その恋が燃え上がる勢いで『ロミオとジュリエット』は書き進められ、喜劇のはずだった芝居は悲劇の名作に変わっていく。

 

日々新たな台本ができ、芝居が進む。

舞台の下から舞台上の芝居に魅入る役者やスタッフたちの表情。

それは、自分の知らないうちに、何かに引き込まれ、巻き込まれ、場と関係が生まれていく瞬間だ。

 

巻き込まれナンバーワンは、興行で入る金をかすめ取ろうとしていた金貸しのフェニマンだ。小屋に通ううちに、芝居の虜(とりこ)となる。ロミオに毒薬を売る薬屋役を得、衣装も自前で調達し、わずかなセリフをうわごとのように何度も練習している。

芝居はそれからも、決闘あり、興行禁止の令が下りと一波乱も二波乱もあり、いよいよ初日の幕が開く。

 

ウァバッシュが、狂言回しとして芝居の口上(「これから、こんな芝居をしますよ~」というアナウンス)を言おうと、舞台裏でセリフの練習をしているが、いつものごとく難発と連発のかけあわせの吃音だ。シェイクスピアは「もうだめだ~」と頭を抱える。

しかし、ヘンズローは「だいじょうぶ」とシェイクスピアを勇気づける。

「どうやってさ?」と聞くシェイクスピアに対し、

 

I don’t know.It’s a mystery.

なぜかうまくゆく。

 

とだけヘンズローは答える。

 

とうとう、トランペットがの開幕の合図が鳴る。

ウァバッシュが舞台に進み出る。

天井桟敷まで満員の観客が難発気味のセリフに少しざわつくが、みながウァバッシュの突き出た唇から出るセリフを待つ。やがて、ヘンズローの言う通り、ウァバッシュの口から長い口上がするするすると発せられるのである。

 

さて、この物語のわけありの登場人物をよく見ると、うまくいっていない輩ばかりだ。

借金苦のヘンズローや芝居の虜になった金貸しフェニマンも、身分違いの恋にのめりこむシェイクスピア(そもそも、奥さんも子どももいるし)、アメリカ大陸のビジネスに失敗し、破産寸前の公爵に持参金として嫁がざるをえない女主人公のヴァイオラも、誰も彼も実人生はうまくいっていない。思い描いた規定路線を大きく踏み外している。つまり、計画していたことはうまくゆかないことばかりなのだ。だけど、予定していなかった思いかげないことがうまくゆく。

この物語は、世界にちりばめられた謎が主人公だったのでは、と思ったりする。

 

■みんな大好き『おおきなかぶ』

 

さて。

謎と言えば、放デイのあおぞら園である。

 

園では、帰りの会で、絵本の読み語りをしていた。

子どもたちは自分の荷物を持ち、上着を着て居間に集まる。読み語り担当スタッフは赤木さん。

子どもたちは、読み語りが大好きだ。みな口を半分開けて聞きいる。

なかでも、トルストイの『おおきなかぶ』はみんなのお気に入りだ。

「うんとこしょ、どっこいしょ」のフレーズでは、声を発さない子どももうなずいたり、手を叩いたり、ピョンピョン飛び跳ねる。私の膝の上の小1のシュンくんは、もぞもぞとお尻を動かしている。

 

しかし、この話は不思議なことに、前後に「むかーしむかしに」とか「……でした」という物語に誘ったり閉じたりすることばがない。

かぶが抜けて、「……かぶが ぬけました」で話がストンと終わる。

すると、みんなの顔が突如曇る。どうしたらよいのかわからないといったような顔。これは何度読んでもそうで、物語から締め出され、現実へ戻る扉が見つからず、困ったような顔だ。

その無言の一瞬の最中に、スタッフの富田さんが「では、きょうの1号車、ステップワゴーン!! リョウ君、ダン君……」と強力に子どもたちを現実に引き戻す。どの車に誰が乗るのかを発表されると、子どもたちはやっと現実に戻ってくる。そして、1号車に乗る子どもたちから、そそくさと玄関に向かう。

 

さて、みんなの帰りの準備がさっさと済むと、車に乗るまで時間があることがある。

富田さんが、「まだ早いねぇ、それじゃあ……」と言う。すると、赤木さんがやけにハイテンションになり、「ではぁ~」とクルクルと回り始める。そして、「読みたいひと!!!」と青木さんがスッと手を挙げるなり、子どもたちは一斉に「ハイハイハイ!!」と手を挙げる。誰かが立ち上がると次々に立ち上がり、ピョンピョン跳ねて青木さんの手をつかもうとする。もう「オレがオレがオレが」と総立ちだ(オレなのは、女の子はなぜか手を挙げないのです)。

 

そこで青木さんは、両手で鎮め、「わかった、わかった。順番ね。じゃあ、きょうは、○○君」と当てる。当てられると、子どもはどうしようもなくうれしそうに前に出るが、どの絵本を読むのか、たいてい決まっていない。そして、「どの本にする?」と赤木さんに聞かれ、本棚から適当な絵本を持ってはくるが、最初の一行目からしどろもどろだったりする。というか、みんなそうだ。それでも青木さんがサポートして読むが、そのうちうちひしがれて席に座り込んだりする。しかし、それでめげるわけではなく、次回もまた「ハイハイハイ」に元気よく参加するのだ。

 

恥ずかしさなど、あおぞら園にはどこにもない気がする。彼らの「オレ、やりたい」は本当に不思議なほど切実モーレツなのである。

 

■ルカ版おおきなかぶ

 

ある日、最前列に陣取っていたルカ君が、本を読むことになった。

ルカ君が読み始めたのは、いつものあのストーリーだった。

 

おおおおおじいさんが、かかかかぶをうううえました。

 

ルカ君が、うれしそうに最初の一行をみんなに向かって言った。

「おおじいさん?」とカズ君が言う。

みんなが笑う。

ルカ君も笑う。

「ちちがうよ、おおおじいさんだよ」

「おおおじいさん?」とカズ君が楽しそうに言う。

みんなが笑い始める。

ルカ君は青木さんにめくってと頼む。そして、次のページを読む。

 

ああまいああまいかかぶになれ。おおおきなおおおきなかかかぶになれ。

 

すると、みんながまた笑い始める。

「ああまい」とか「かかぶ」がおもしろいのだ。ルカ君のいわゆる吃音に笑っているのではない。音がおもしろいのだ。

ルカ君はみんなにウケたとうれしそうに続け、例のフレーズに進む。

 

うううんとこしょ、どどどとっこいしょ。

 

みんながまた笑いだす。

さらに進んで、「おじいさんは、おばあさんをよんできました」のところで、ルカ君が、ニヤッとしてから、

 

おおおじいさんは、……おおかあさんをよよんできました

 

と言う。

みんなはびっくりしながら「おおかあさん……!!」と笑い始める。

 

それからが大変だ。

 

おおかあさんは、おおとうさんをよんできました。

おおおとうさんは、とととなりのおおじさんをよんできました。

ととなりのおじさんは、ととなりのおばさんをよんできました。

となりのおばさんは、どうぶつえんのぞうをよんできました。

どうぶつえんのぞうは、ライオンをよんできました。

ライオンは、きりんをよんできました。

 

みんながゲラゲラ笑う。

そうするうちに、子どもたちが、カバとか、トラとか、いのししとか、クジラとか、すずめとか、カエルとか、いろんな動物を呼び始める。

 

収拾がつかなくなって、青木さんがルカ君に「ねぇ、かぶはぬけたのかなあ?」と聞くと、「えっ? どーでもいいじゃん」と笑いながら言う。と、客席からカズ君が、「えっ、かぶはぬけないよ」と手でノンノンする。子どもたちがいっせいに笑う。
「どーして?」とスタッフ全員がそのわけを聞きたがるが、カズ君は「うん?」と言ったままだ。大人はなんだかきつねにつままれたような顔をしている。子どもたちは大笑いして、まるで銭湯からあがったみたいな爽やかな顔で玄関に向かい始めた。

 

■人と場のかみあわせがミステリーを生む

 

そういえば、ルカ君が途中から吃音がなかったかもしれないなあと気づく。定かじゃない。そもそも、ルカ君の吃音を、私もまわりのスタッフも気にしたことがないからだ。子どもはなおさらだ。ルカ君に吃音についてなにか言うことはまるでない。このことをすごいことのように私は決して言いたくないし、ルカ君の気持ちやお母さんお父さんの気持ちもあると思うけど、とにかく、あおぞら園では吃音は認識されるものとして存在しなかった。

 

だって、そうしゃべるのがルカ君だし、「おおじいさん」はおもしろいし、「かかかぶ」もおもしろいし、もし、いわゆる「スラスラと」というふうにルカ君が読んでいたら、そんな楽しい音に出会うことはないじゃないか。

 

うまくことばが出てこない場面に遭遇するほうが、伝わる間合いがあったり、気持ちをわかり合おうとすることはないだろうか。

いま、このひとは、どんな気持ちでしゃべっているのかなあ、と想像の気持ちが湧く。

それに、うまくしゃべれないと、人は手や指や顔や首や足や肩でことばじゃないことばを話し始める。すると、受け取るほうもイキイキし始める。「あら、こっちのほうが伝わる」と気づく。

 

こういうことだろうか。

 

うまくしゃべれるのは、つまらない。

 

うまくいってない――そのことがむしろ、別のうまくゆくを生み出す。

 

お座敷をしてなかったら、あの日、みんなは私の閉脚跳びを見てあんなに沸いただろうか。

ウァバッシュがあんなに満員の客席をさらったのは、彼のとがった唇をみんなが目を凝らして見つめたからじゃないか。

ルカ君のおおきなかぶのルカ版は、できあいのものから脱線する楽しさだった。

 

事情、障害、問題というものについて私は、それらはたやすくひっくり返ったり、裏返り、溶け出し、とがった表面が水面のように平らになることすらあると思っている。

確立したと思っているものや境界線など、しょせんは幻想だくらいに思っている。

 

そもそも芝居的視線からすると、何事も順調なことほどおもしろくないことはない。

普通からずれてること、既定路線をはずれてはじめて、ドキドキワクワクが始まる。

 

ルカ君が、『おおきなかぶ』を別の話に作り変えていき、みんながあんなに湧いたのは、ルカ君が自分の「おおきなかぶ」を見つけたからだし、場所があおぞら園だったからじゃないかと思う。人と場のかけあわせだ。

 

そういうところに立ちぼるのが「なぜかうまくゆくという」謎の事実。

うまくゆかなそうなことがなければ、このことばは成り立たない。

つまり、うまくゆかないことは、おもしろいことの始まりでもある。

 

放デイとは

 放課後等デイサービスのこと。発達障害・知的障害を持つ児童を中心に、肢体に不自由がある児童、排泄自立が困難な児童も含め、小学校1年生から高校3年生までの学齢期の児童が、支援や療育を受けるために学校や自宅への送迎により集まる通所サービス。1日の利用上限は約10名。対してスタッフ34名で支援する。

 マンションの一室やビルのワンフロアなど、決して十分に広いとはいえない空間で展開している場合が多い。そこに、学齢も性格も発達の道のりも違えば、障害の混ざり具合も、特性も、表出の仕方も無限にスペクトラムな児童らが集まる壮大かつ濃密な世界が広がる。

(中山求仁子「劇的身体」第14回終了)

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