第5回 水に恋する子どもたち―― ヘレン・ケラーとダン君

第5回 水に恋する子どもたち―― ヘレン・ケラーとダン君

2020.10.28 update.

中山求仁子(なかやま・くにこ) イメージ

中山求仁子(なかやま・くにこ)

2017年から18年まで、神奈川県のとある放課後等デイサービスの管理者として勤務。自身も幼少期から横綱級ADHDであり、現在は双極性障害も発症している。
大阪大学文学部美学科音楽演劇学コース卒業。高校時代よりモダンダンス、大学入学と同時に小劇場演劇を始める。2001年退団以降、人生自体が演劇のような双極 I 型ジェットコースターライフを送っている。韓国映画と韓流ドラマをこよなく愛す。

 たしか中3だったと思う。

 大人びた友達が、YMOだとかチューリップだとか言い始めたころ、私はまだジャニーズのマッチこと近藤真彦が好きで、ある日曜日、マッチ主演の映画に出かけた。

 ラストシーン。マッチの乗ったバイクが宙に浮き、ストップモーション。お母さん役の女優さんが「マッチ―!」と叫んで映画が終わった。

 

 ひどく白けた。お母さんは事故現場にはいないのに、なぜ、どこで、あんなに叫んだのだろうとリアリズムを追及したくなった。まあ、客席のファン心理を代弁したのだろうが、なんだか腑に落ちなくて、それ以来、マッチ熱も冷めた。

 

■格闘する身体

 

 ちょうど同じころ。

 小学生のときよく観ていた「大草原の小さな家」のローラ役、メリッサ・ギルバートがヘレン・ケラーを演じるというので、2時間のテレビ映画を観た。

 終わってテレビのCMをボーッと観ながら、判然としない気分だった。本当を言うと、「ウソだな」と思った。マッチの映画と変わらぬ違和感を覚えた。

 

 この映画は、ふたりの無言の格闘がとても多い。ガラスやお皿が割れる音、椅子がバタンと倒れる音、激しい靴音、衣擦れ、ケーキが口に投げ入れられ、むしゃむしゃとヘレンが食べる音、ふたりの荒い息遣い。途中から、プロレスのようなダンスにも見えてくるが、心地よいものではない。狙ったものだろうが、格闘のたびに、私は身体中がこわばった。

 

 ラストシーンもまた格闘だ。夕食の席で、ヘレンがナプキンをはずして床に投げたことがきっかけですったもんだがあり、ヘレンが先生の顔に水差しの水をかけ、先生は逃げようとするヘレンの服や腕、腰をつかんで水差しの水を汲みに外へ強引に連れ出す。

 

 ポンプ場で、サリヴァン先生は水差しに水を入れるように激しく指示し、ヘレンの手のひらにwaterと綴る。ヘレンは水を手のひらに浴びる。ヘレンの表情が変わり、生まれて半年でwaterを覚えたときに発していた「ウォー、ウォー」という音を口から発する。ヘレンはサリヴァン先生の手のひらにwaterと綴り、ものと言葉のつながりをつかんだ歓喜の場面で映画は終わる。

 

■もう片方の身体はどこへ?

 

 ここまで観て、当時の私が子どもながらに思ったのは、そんな暴力的な状況で、ものを知るとか、大事な何かに気づくってことが子どもにあるのだろうか、という懐疑の感想だったと思う。

 

 「なんでそんなことわかるの?」と聞かれたら、「いやいや、なかなか緊張感漂う家庭で育ちましたから、わかるんですよ。怖いときは怖いだけなんです」と、とりあえずこの場では、トラウマチックな体験有りなことを仄(ほの)めかしておくだけにする。

 

 いや、そういう緊張が生育期にあった自分でも、片方には、友達とカエルの卵やトンボやアゲハ蝶の幼虫に出会ったときの明るい記憶、身体が跳ねるようにそれらと向き合っていた記憶が、わたしの世界をつくってきたように思うからだ。

 

 格闘はあったかもしれないが、そういう身体だけではなく、映画には描かれなかった身体がふたりにはあったのではないか。そこを省略するのは片手落ちではないか。「マッチー!」には身体性が欠如していて、『奇跡の人』は身体性に偏りがある。その意味で同じ違和感を覚えたのではないか。

 

 つまり、私にとっての『奇跡の人』はよくできている映画ではなく、よくできていない映画にみえたのだ。

 その忘れ去られた片方の世界が何であるかを探そうと思ったのは、放デイの子どもたちと暮らしたからだと思う。

 

■『一方的な手紙』のまた外へ

 

 ふたりの物語である『奇跡の人』は、3度も映画化され、今も舞台上演されている。物語はサリヴァン先生の手紙と日記をもとに書かれたとされるが、その手紙(『愛とまごころの指――サリバン女史の手紙』)やヘレンの自伝(『わたしの生きる世界』『奇跡の人――ヘレン・ケラー自伝』)によると、夕食のシーンとポンプ場のシーンはつながらない。

 

 夕食の格闘はあったが、先生は引き下がる。ポンプ場の出来事は、それから1週間後の穏やかな日常、スイカズラの香りに誘われて、ふたりが戸外に出たときに起こった。

 実際、ふたりはよく戸外で自然に触れている。想像するに、そこには、まだ7歳に満たない少女と、20歳になったばかりのうら若き女性の、子犬のようにもつれて遊ぶ、楽しい時間があったような気もする。

 

 実は、この文章を書いていたとき、編集者さんから一冊の本を紹介された。『目の見えない私がヘレン・ケラーにつづる怒りと愛をこめた一方的な手紙』(ジョージナ・クリーグ著、中山ゆかり訳、フィルムアート社)。

 

 視覚障害を持つ作家・研究者が書いたこの本は、ヘレン・ケラー自身が「奇跡の人」であり続けるために、さまざまな事情のなかで押し黙ったこと、事実を曲げていることがあるのではないかと語っている。そして、亡きヘレンに、人間としての肉声を聞かせてほしいと迫る痛切な本だ。

 

 ジョージナさんはサリヴァン先生にも手厳しい。彼女の癇癪的な振る舞い、ヘレンに対する教育のウソ、お金をめぐる打算も暴く。そこに生じたふたりの孤独やすれ違いにも触れ、サリヴァン先生の初期の手紙については懐疑的だ。

 

 こうした手法により、人の生の裏に潜む陰影を暴くことで、生のリアリティが立ち上ることはたしかにあるだろう。しかし私には、この著書を読んでなお、ふたりがささやかな日常に驚き、喜び、そして笑う、平凡な人間としてのリアリティが脳裏に浮かぶのだ。なぜだろう。おそらくそこに、私たちが見落としがちな「何か」があるという気がするからかもしれない。

 

■ふたりにとっては何が「奇跡」だったのか

 

 サリヴァン先生は、自分にケリー家での教師役を紹介した、出身校のパーキンス盲学校の校長宛てにたくさんの手紙を書いている。

 その中で、ポンプ場の一件にも触れている。1887年4月5日の手紙では、その日、ポンプ場で起こったことを、彼女は「奇跡」と呼ばず、「大変重要なこと、教育上の第二歩」が起こったと書いている。

 では、第一歩とは何か。

 

 それは、この日から約2週間前の3月20日(サリヴァン先生は3月6日に初めてヘレンに会っている)に起こっている。その日、ヘレンは初めて、サリヴァン先生の膝に乗った。そして、先生が自分の頬にキスすることを受け入れた。そのことをサリヴァン先生は「奇跡」と呼び、興奮とともに手紙に綴っている。

 

 そして、3月28日の夕食の格闘から1週間後の4月5日、ポンプ場の一件があったその夜。ヘレンは寝る前に、サリヴァン先生に、初めて自分からキスをしている。この出来事にサリヴァン先生は、「心臓が破裂しそうな気がした」と追伸に書き、その日の手紙を締めくくっている。

 

 この手紙をそのまま受け取るとしたら、ふたりにはいったい、何が起こっているのだろう。私は、これはおそらく、恋慕の始まりに似ているだろう、と思う。

 

 鶏小屋で孵化する卵を手のひらに乗せ、ヒナの胎動を感じたり、シャベルで土を掘り、種を蒔いたりしながら、ふたりは親密な関係を形づくっていく。ただそれは、ふたりの進む道のうしろに自然と出来上がっていったものだ。

 最初の頃、ふたりの手もとにあったのは、世界に触れ、知っていくという楽しい経験だったろう。それは、ヘレンにとっても、ボストンの大都会の片隅で、苦しい暮らしを強いられたサリヴァン先生にとっても、狂喜するような、驚きの連続だったのではないか。

 

 自然の中でふたりが経験することは、周到に用意され、いちいち狙いを定めて行われたものだったろうか。

 かかわりのみちすがら、期せずして、モノやことがらと出会う。そのとき、とっさにサリヴァン先生が指文字でヘレンに呟き、ヘレンがサリヴァン先生に、ふいと指文字や表情やしぐさで返す何かが、次のことがらへと導いたのではないか。

 

 起こることに、人は準備などなく、思いもしないことが起こる。

 思いもしなかったことを受け取る楽しさ。

 子どもの時間とは、そんな場だ。

 先んじた意味などなく、ものに出会い、ものを感じる。

 楽しいと思い、その楽しさに溺れる。

 

 もし、子どもが認識するとはどういうことかを本当に探るのならば、あの日ポンプ場であったことを、もう一度とらえなおす必要がないだろうか。手に水を掛けられたとき、果たしてヘレンには、どんな感覚がやってきたのだろうか。

 

■子どもたちは水にとろける

 

 私の勤務する放デイの子どもたちは、「なぜそんなに?」と思うほど水が好きだった。6月から始めた大型プールは連日大盛況で、小1から高3までの男女が、放課後の大半をプールで過ごした。

 

 プールサイドで私は見守る。

 見守りながら、ホースでシャワーをかけたりもする。プールの中にいる子たちはキャッキャッと逃げ回りながら、イルカがえさを欲しがるように、足を浮かせ、手で歩いてきて、シャワーを顔にかけろと言う。かかりたいだけかかると、「やられたー」とばかりに逃げ回る。その顔が、誰も彼も、とろけている。

「水は楽しいんだなあ」と思う。部屋にいるときより、ずっと自由だ。

 

 なあんて、ひとりでニヤニヤしていると、プールから水が飛んでくる。

「やめてよ、誰よ、もう」と言うと、あちこちから飛んでくる。

「こうしてやるー」とこちらもシャワーホースで応戦。遊びに近い。

 

 それにしても、蒸し暑い。

 暑すぎて、一緒にプールに入りたくなる。首にかけたタオルで汗をふく。麦わら帽子を被り、うちわで蚊をはたいたりしてると、浜茶屋のオバはん気分になる。

 

■プールの中の恍惚の人

 

 下の駐車場に車が着いた音がした。養護学校一行が到着し、階段を上ってくるのは、連載第2回登場の小2のケン君、中2のダン君、高2のリョウ君だ。私は到着隊の方を振り返り、間のびした声で「おかえり~」と声をかけ、またシャワーに専念しようとした。

 

 そのとき、殺気を感じた。

 振り向くと、白いポロシャツにチノパンツのダウン症のダン君が、支援室に向かわず、いつもはわざと誰かにはずさせる胸の留め具をいとも簡単に自分で外し、リュックを後ろにドサッと落とした。

 ダン君は、まるで獲物を見つけたかのような鋭い目つきで、まっすぐにプールをみつめていた。

 

 彼は通常、パントマイムでよく見るような、膝を伸ばしたままカクカク歩きをする人で、そんなに早くは動かない。しかしあるとき、トランスフォームするのだ。瞬間移動のワザをも使う(そのワザと現代アートの旗手ぶりを、発売中の「精神看護」2020年11月号につぶさに書かせてもらったので、ご興味のある方はそちらもぜひお読みください)。

 

 ダン君は、「ずんずん」とプールに向かってくる。まるで韓流ドラマのヒーローのようだ。私はホースを持ったまま、ただ口を開けた。

 ダン君は、水びたしのプールサイドのコンクリに座り、早技で白いスニーカーとソックスを脱ぎ、プールに入った。

 みんなが唖然と見ているなか、プールの真ん中に立つ。そして、ホースのシャワーをプール上空に向けて掲げる私に向かい、イエス・キリストのようにゆっくりと手を挙げた。

 

 ダン君の顔に水が舞い落ちる。

 ダン君は、目を見開いている。何とも言えない恍惚の表情だ。

 顔面に水を浴び続けながら、ダン君が口をパクパクする。

 何かをしゃべっているようだが、そうではない。

 ダン君の口は、魚のエラのように、空気を吸い込んでいたのだ。

 

 そもそもダン君は、筋金入りの反抗期中学生だ。「おめえたちの世界に簡単になびくオレじゃねーぜ」と、いかった肩と、絶壁の後頭部周辺に荒波と強風を巻き起こしながら、いつもニヒルに構えている。そして、ヤルときにはヤルのだ。

 

 小4の姉御肌ミマちゃんが、私に向かって叫ぶ。

「中山さーん、ダン、ちょっと、変なにおーい」

 えっ、まさか?

 

 恍惚に浸っていたダン君の顔が、しだいに素に戻る。

 私は急いでプールに入り、ダン君に近づく。間違いなかった。ヤラれた。

 ダン君の「ポンプ場の出来事」は、下で起こっていたのだった。

 

 プールのまん中でこうばしい匂いを漂わせる彼の肩に、静かに手を置く。

「お楽しみのところ、悪いね。行こうか」

 ダン君、便とともに、去りぬ。恍惚とは、全身症状を伴う官能であった。

 

■受け取り合って共に佇む

 

 答えはいつも、子どもが差し出すのだと思う。受け入れて、かかわりあいを続けていくだけなのだ。そのなかで、身体に取り込むものがあり、それはときおり言葉に連結するのだろう。しない場合があっても、それはその子の選択であり、後ずさりではないと思う。

 

 ヘレンは言葉を選び、ダン君は選ばない、それだけだ。

 子どもは、自分に必要なものを自分なりに選び取っていると思う。

 

 その前の段階で、大人が狙い定めて行動することによっては、子どもの世界は顕現しない。かかわりをつむぎあい、受け取ること、受け取り合って共に佇(たたず)む――そうした微妙な関係性のなかにこそ、世界は開かれているのだと思う。

 

■放デイとは

 放課後等デイサービスのこと。発達障害・知的障害を持つ児童を中心に、肢体に不自由がある児童、排泄自立が困難な児童も含め、小学校1年生から高校3年生までの学齢期の児童が、支援や療育を受けるために学校や自宅への送迎により集まる通所サービス。1日の利用上限は約10名。対してスタッフ34名で支援する。

 マンションの一室やビルのワンフロアなど、決して十分に広いとはいえない空間で展開している場合が多い。そこに、学齢も性格も発達の道のりも違えば、障害の混ざり具合も、特性も、表出の仕方も無限にスペクトラムな児童らが集まる壮大かつ濃密な世界が広がる。

(中山求仁子「劇的身体」第5回終了)

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