第4回 人生の巻き込み、日々のはからい

第4回 人生の巻き込み、日々のはからい

2020.10.12 update.

中山求仁子(なかやま・くにこ) イメージ

中山求仁子(なかやま・くにこ)

2017年から18年まで、神奈川県のとある放課後等デイサービスの管理者として勤務。自身も幼少期から横綱級ADHDであり、現在は双極性障害も発症している。
大阪大学文学部美学科音楽演劇学コース卒業。高校時代よりモダンダンス、大学入学と同時に小劇場演劇を始める。2001年退団以降、人生自体が演劇のような双極 I 型ジェットコースターライフを送っている。韓国映画と韓流ドラマをこよなく愛す。

 初回に、私自身が双極Ⅰ型とADHDが混合した精神障害を持つことを記した。

 

 双極Ⅰ型は、躁期の行動が人生の変容を促すほど激しくなる。これにADHDの多動が重なる。もう無敵な私である。従う家族にとってはさぞかし暴君だったと思う。よって、私の得意技は「巻き込み」と言える。車ではなく人生の「巻き込み」を、家族に対して私は20年近く行ってきたのである。

 詳細はこの際避けるが、息子が被害者であることは間違いないとしても、どれだけ理解のある伴侶なのだと思われる読者もいらっしゃるだろうから、しばし夫に触れたい。

 

■ホームレスの怪優

 

 夫は大学の小劇場の演劇サークルで出会った劇団同期だ。ふたりとも会社に勤めても、子どもができても、のらりくらりと芝居を続けた。

 夫の当たり役はホームレスだった。フーテンことホームレスのフーちゃんとテンちゃんが、事件の解決に一役買うというおバカなシリーズが人気を博した。日頃は普通の人間だが、舞台でひとたび狂気を帯びると変身する怪優だった。

 

 息子が3歳の夏、公演初日の前日に母が末期癌だとわかった。私の様子が変だと感じたからか、寂しさが募ったからか、息子は開演30分前に楽屋に訪ねてきて、私の脚に抱きついて離れなくなった。

 どうしてよいものかわからなくなり、私も息子も涙があふれてしかたがなかった。楽屋でキャストもスタッフも幕が開けられるのかと緊迫するなか、ひとり平然と鏡に向かってメークをしている男優がいた。夫だった。

 

 芝居はそれ以降していない。母の死後、夫を置いて北海道へ息子と旅立った。人生を芝居に見立てた漂流の始まりだった。数え切れなく引っ越しをし、数え切れない転職をした。

 お金も気力も尽き、おとなしくなった最近の私に夫がぼやく。

 

「きみは最近、おもしろくなくなった。スクェアだよ」

 

 これだけ家族を巻き込んだ私にさらに何を期待しているのだろう。

 

■「憑き」と精神病

 

 精神疾患による破綻や逸脱にみえる言動と、民俗学的にいわれる「憑霊(ひょうい)」現象は、ほぼ同じものと考えてよいらしい。明治以降、西洋医学のフォーマットが敷かれ、「憑(つ)き」は「精神病」等に振り分けられ、回収された。そこで治療とされてきたことは、非科学的なものとして、文化・世俗からも遺棄されていく。

 

 しかし現代においても、スッキリ晴れた気持ちになることを、「憑きものが落ちたようだ」と呟いているし、カードゲームなどで勝っているとき、「ツイてる!」と人は感じる。正体はわからないが、身体が感じるのである。

 そういう感覚を個人の身体にいまだ宿しながら、憑霊現象は、衰退した村落共同体の幻として位置づけられた。

 

平生はそっけない物言いをして、人の前ではろくに目も見合わさぬ兄や夫が、実はひそかに家の女性の言行に対して、深い注意を払っていたのであったことが、こんな異常な場合になるとすぐに露顕(ろけん)する。通例まさに霊の力を現わさんとする女は、四五日も前から食事が少なくなる。目の光が鋭くなる。何かというと納戸(なんど)に入って、出てこぬ時間が多くなり、それからぽつぽつと妙なことを言い出すのである。[…]第一次の固い信徒は、いかなる場合にも必ず家中の男子であった。というよりも神憑きを信じえない家には、神憑きの発生することは決してなかった。

(柳田國男『妹の力』)

 

 この論考は、大正14年10月発行の『婦人公論』に掲載されたものだ。タイトル中の「妹」は「イモ」と読む。妹だけでなく、家族の中の女性を指す。

 男性は政治を、女性は祭祀(さいし)を司るというのは、村落共同体のマクロな政治経済的力学から見た形態だが、柳田のまなざしはなお微細だ。個々の人間としての息づかい、両者のミクロな関係に分け入った。驚くのは、最後の一文である。

 

「神憑きを信じえない家には、神憑きの発生することは決してなかった」

 

 つまり、逸脱の心情や感じ取りが信じられ、促され、思いきり「憑く」ことが約束された場所がなければ、「憑き」を表すことができないということだ。逆に言えば、場を用意されているから、表出することができる。「憑き」は、現代においては「精神病」という名で呼ばれ、逸脱したものとして峻別されるが、かつては共同体の信仰に応えたものでもあった。

 

 なぜ、兄や夫は、妹や妻の神憑きを求めたのだろうか。

 そこに、代行を希求する意図はなかったか。

 柳田がさらに加えるのは、定期的な妹や妻の神憑きに周囲が加担すれば、家族という共同体はより強固に維持されたという事実だ。現代においては振り向かれなくなった「妹の力」が存在したということである。

 

■意味を介さない即興劇

 

 4年前、ふたたび巻き込みが始まった。

 私の勤務開始2か月のうちに、夫と息子は放デイに収監されていた。

 夫は、会社のない毎土曜日に駆り出された。

 

 ある土曜日。

 私が二階から階下に降りていくと、みんなが大爆笑していた。居間で、中3のダウン症のケイ君が囲まれている。その輪の内に夫がいる。

 

 ケイ君は、少しポッチャリした体形に、太い眉、目じりの垂れた愛らしい眼、小さな鼻、小さな口。口元にヒゲが生えているのが、なお可愛い。

 ダンスが得意で、いつもいきなり踊りが始まり、まわりも踊らなくてはならない。こちらがノって踊り始めると、「ハイ、ヤメテ―」と両手を下に下げるポーズでストップがかかる。

 

 それからあぐらをかいて、ブツブツが始まる。聴きとれないが、とにかく、誰かと会話をしているのだ。

 おそらく、大好きなお兄ちゃんなのだろう。彼の言葉は、発せられる音としてはその意味を伝えないが、その抑揚と身振り手振りでだいたいのことはわかるのだ。いや、わからなくても周囲が見つめる。両手を使い、膝を叩いたり、頭を抱えたり。そのおもしろさに、つい魅入られてしまう。

 笑いの渦は、どうやら警察の取り調べ室を中心に沸き起こっていた。

 

「○△□……」とケイ君が頭をかいている。

「いやあ、ほんと、まいった、まいった」と夫。

「□□、○△□□○、□、△△○?」

「やっぱり、おまえもそう思うか?」

「□、□○△!○△□……」

「しかし、証拠がなあ……」

「△□△○○□△!」

「無理しちゃいかんよ、慎重に、慎重に捜査を続けないと」

「○□。△□、□○△、□○△……」

「もちろん、タイミングというものがあるからな。しかし、厄介なのは、課長だな……」

「○□△、○□△……」

「いや。言うときは、俺から言うさ。いちおう、年上なんだから」

「○○△□!」

「いや、いいんだ。気にしないでくれよ。問題は課長さ。なんせ、あの性格だからなあ、我々のやってきたことを素直に認めるかどうか……」

「○□△!」

「そうだよな、しかし……、実を言うと、そりがあわんのさ」

「○□△」

「お、わかる? わかってくれる?」

「□△!」

「おれはさ、つくづく上司に恵まれないよ。だいたい、課長は、ああ見えて、細かいところがうるさくて、すぐに……課長!」

 

 突然、還暦スタッフ相川さんが巻き込まれる。

「えっ?」と相川さんが反応すると、

「これは、富田次長、きょうもお美しい」

と富田さんまでも引き込まれる。

「お茶でも、みなさん、いかがでしょうか。あ、そこのきみ、お茶を4つ」

と、お茶くみを命じられたのは私であった。

 

 後日、なぜあんなに芝居が続き、盛り上がったのだろうと夫と話した。

「声かなあ」と、得意なのにうれしさを抑えて夫が言う。

「ぼくの声に、ケイ君は反応したんじゃないかなあ。心地よかったんだよ。意外な引き受け感があったんじゃない? 『ケイく~ん?』とか、声色変えたりしないで、自然に声をかけたんだ。そしたら反応してきてくれた。平場に立てたんだよ、ふたりで。だからあんなに続いたし、まだまだ続いたと思う。意味を伴った言葉をしゃべる子ではあんなに続かないよ。いやあ、楽しかった」

 

■受容ではなく、はからい

 

 受容という言葉は、響きがいい。もちろん、宗教的な意味合い、カウンセリングや死期をめぐる考え方としても深い意味がある。しかし、この言葉が障害を持つ者の家族に向けられるとき、たちまち息苦しく、一方的に投げつけられたもののような硬い響きに変わるのはなぜだろうか。

 

 求めるのは、受容ではないのではないか。

 むしろ、柔らかな小さい日常のやりとりや、はからいではないか。

 

 柳田の伝える共同体における男女の支え合いは、暮らしの中で微細な変化を感じ取り、場を提供し、場で憑くことを成り立たせる相互の協働作業だった。支える側の心情には、「憑き」を帯びる女への、日々のはからいがあった。

 

 熱がないか肌に触れる。顔色を見る。表情を汲み取る。声をかける。言葉を交わす。様子を見る。一緒に食事をとる。

 こういった身体的なかかわりを交わすと、相手の調子は自然と自分に取り込まれる。取り込んで、返す。取り込んで、返す。接触は身体の共同性を思い出させ、境界を越え、いつか相手のことを我がことだと思うようになる。

 もちろん、それに疲れたとき、誰かに代行を求める共同体の場がもっと広がるべきだとは思う。

 

 ケイ君のお兄ちゃんは、ケイ君を、もうひとりの自分だと感じているのかもしれない。ケイ君もそうだと思う。お兄ちゃんを自分の中に取り込んでいたような気がする。だから、お兄ちゃんがいなくても、お兄ちゃんがいるかのように、自然に会話する。

 夫もまた、私を、別の自分だと思うところがあるのかもしれない。つまり、みずから巻き込まれているのかもしれない。都合のよい解釈かもしれないが、人は自分の人生だけを生きているわけではないと、ときどき思う。

 

■放デイとは

 放課後等デイサービスのこと。発達障害・知的障害を持つ児童を中心に、肢体に不自由がある児童、排泄自立が困難な児童も含め、小学校1年生から高校3年生までの学齢期の児童が、支援や療育を受けるために学校や自宅への送迎により集まる通所サービス。1日の利用上限は約10名。対してスタッフ34名で支援する。

 マンションの一室やビルのワンフロアなど、決して十分に広いとはいえない空間で展開している場合が多い。そこに、学齢も性格も発達の道のりも違えば、障害の混ざり具合も、特性も、表出の仕方も無限にスペクトラムな児童らが集まる壮大かつ濃密な世界が広がる。

(中山求仁子「劇的身体」第4回終了)

←第3回はこちら 第5回はこちら→

 

トラックバック

http://igs-kankan.com/mt/mt-tb.cgi/1255

コメント

このページのトップへ