第3回 大きな頭と小さな足を持つ青年――環世界を超えて

第3回 大きな頭と小さな足を持つ青年――環世界を超えて

2020.10.05 update.

中山求仁子(なかやま・くにこ) イメージ

中山求仁子(なかやま・くにこ)

2017年から18年まで、神奈川県のとある放課後等デイサービスの管理者として勤務。自身も幼少期から横綱級ADHDであり、現在は双極性障害も発症している。
大阪大学文学部美学科音楽演劇学コース卒業。高校時代よりモダンダンス、大学入学と同時に小劇場演劇を始める。2001年退団以降、人生自体が演劇のような双極 I 型ジェットコースターライフを送っている。韓国映画と韓流ドラマをこよなく愛す。

 ショウタ君は、高校3年生、17歳。勤務初日、最初に出会った放デイ児だった。

 

 養護学校のバスから降りてきたショウタ君は、驚くほど頭が大きな男の子だった。その形は、カーリングのストーンのようだった。身長130㎝ほどの身体のてっぺんにストーンがついている。

 パスの昇降ステップを、ショウタ君は足元を見ず、足先で少しずつ段差の有無を確かめながら、何かをつかむように手を前に差し出し、降りてきた。私は彼の足元を見た。またまた驚いた。その足は、つま先からかかとまでが10㎝ほどだった。

 標準的な比率では、身長の100分の15が足のサイズだ。もしショウタ君の身長が130㎝ならば、足のサイズは20㎝弱が標準だ。その半分のサイズでショウタ君は大きな頭を支えている。

 

 一緒に迎えに来た谷本さんに付き添われながら、ショウタ君は一歩一歩、小さく、ゆっくり、歩を進める。わずかな進みを薄いレゴブロックに変換し、ひとつずつ足していくような移動。流れるような重心の移動とは対極だった。彼の移動や彼の「在る」は、とても個性的だと私は感じた。私は彼を見て、そのころ知ったある生物学者の考えにつなげていた。

 

■生物にはそれぞれの「環世界」がある

 

 生物学者のユクスキュルは、この世界はひとつではなく、それぞれの生物が「環世界」と呼ぶべき、まるで違う世界に生きていると言った。たとえば、マダニは、酪酸の匂いと温熱動物の熱に反応し、待機した樹上から動物に向かって飛び降り、触覚で皮膚を探りあて、血を吸う。

 酪酸・温熱・触覚。この3つがマダニの世界のすべてだとユクスキュルは言う。マダニは、目当ての情報が得られなければ、18年間もじっとその場で待ち続ける独特な時間感覚を持っている。

 犬には犬の、人間には人間の環世界がある。そして、ショウタ君にはショウタ君の環世界。それは、ゆっくりと瞬間をつないでいくような移動とスローモーションのような時間感覚。半目で見る世界。宙に差し出す指先は、世界に触れるためのアンテナのように、微かに揺れていた。

 

 ショウタ君は、推測した通り、五感の発達した人だった。いちご狩りに行ったとき、誰よりも早くイチゴの香りに反応した。幼児プールに入って水を触るのが大好きで、水をパシャパシャ叩く行為を飽きずに何度も繰り返した。

 触覚に意識が集中しているときが、いちばんこころが安定しているようで、ガムテープやバンドエイドの粘着部分が大好きだった。

 

 マンツーマンで遊べたらいいのだけども、そういう余裕がないとき、私はショウタ君の環世界を置き去りしているような罪悪感を抱いた。実際、それだけの存在感が彼にはあった。でも、遊べる瞬間があっても、なぜかかかわる糸口がつかめなかった。それは私の思考に落とし穴があったからだ。

 

■孤高の環世界?

 

 人のイメージは怖い。「大きな頭と小さな足」には、きっと限りない困難や生活上の不都合さがあり、それを補う孤高の環世界を彼は構築しているはずだ。そう私は勝手にイメージしていた。しかしそれは、「遠い存在でわからないから、かかわれない」の逃げ口上をつくるためだったのかもしれない。

 

 実は、私は勤務初日のイチゴ狩りで、ショウタ君をイチゴ畑に倒してしまった。頭を支えきれなかったのだ。

 それ以来、移動のたびに、苦手意識が頭をもたげる。「また倒したらどうしよう。頭を打ったらどうしよう」という恐怖だ。すると、支える手と腕に不自然な力が入り、やらなくていいことばかりやるようになる。でも、ショウタ君は何も言わずに歩いてくれる。だからといって、苦手感はぬぐえない。

 

 かかわりあいは、経験と時間の間に生まれていく。

 ただ、それは比例するものではない。

 あるとき、かかわりの開口部が開くのだ。それは、自分に気が向いていると開かない。

 私は、何かを見落とし、誤解しているとうすうす感じていた。

 

■「テヘ」に気づく

 

 ある日、私は中3のカイ君を迎えに車に乗っていた。途中、ショウタ君の通う養護学校のバスストップを通りかかる。

 ちょうどバスが止まっていて、ショウタ君がバスから下りてきた。お母さんが迎えに来ていて、地上に降り立ったショウタ君の頭を軽くポンと叩いている。

 するとショウタ君は首をすくめ、「テヘ、やっちゃった、ボク」という顔をしたのだ。

 

 車のガラス越しに、ふたりとすれ違う。しばらく、バックミラーでふたりの姿を追う。私の目に映ったのは、ショウタ君が、特に支える手も必要とせずに、いつもよりスタスタと斜めになった歩道を平気で歩いている姿だった。

 私は、しばし考え込んだ。

 

 なに、あれ。

 テヘって、なに?

 なに? あの、ごまかすような笑い。あんなの、見たことない。

 

 私はそのとき、やはり大事なことを見落としていたことに気づいた。

 人間の環世界はひとつではない。人間は、環世界を移動するのが得意だ。学校、家庭、会社、いろんな環世界を移動する。ショウタ君にも環世界はたくさんあるのだ。放デイの環世界もあれば、家庭も学校の環世界もある。

 

 いや、違う。移動しているのではない。環世界はひとつで、ショウタ君もひとりだけど、1景から2景、2景から3景へと場面が変わり、登場人物が変わる。場所も変わる。すると、ショウタ君は変わるのだ。

 

 なあんだ。

 ショウタ君は、それぞれの景で、それぞれのショウタ君を、演じていたのだ。

 

 演技というと語弊があるかもしれないが、それぞれの景で登場するキャストに、彼は合わせているのだ。お母さんがショウタ君に怒ってスタスタ歩くなら、ショウタ君は必死についていく。景が変わって、私のようなビクビクと不安定に支える者には、「しょうがないなあ」と思いながら、自分の安全を守るためにもゆっくりとした足取りで歩く。足取りのテンポも、欲求の表現も、ショウタ君はキャストの変更を心得て、それに合わせて柔軟に対応する即興力さえ備えている。

 

■社長とママの物語

 

 ある土曜日。

 管理者にとっては相方である児発管(児童発達管理責任者、個別の支援を考える責任者)の富田さんが出勤した。

 彼女は幼稚園でも保育園でも長いキャリアと実績を持つ人だった。この業界にはめずらしく、金髪に近い長い茶髪で、きっちりつけまつげをつけ、完璧メイクで支援した。いったい、誰に向かって完璧メイクをしているのか首を傾げたが、放デイにあっても女であることを忘れないのが、彼女の信条らしかった。

 

 人生のよもやま話をしたことがある。すると、学生時代、私が暗くて汚い小劇場で芝居をしていたころ、彼女は毎夜、有名ディスコのお立ち台で羽根のついた扇子を振り回して踊っていたことが判明した。まるで違う世界に生きていたふたりが一緒に仕事しているなんて、人生の不思議だと言い合った。

 

 ショウタ君は、そのディスコの女王がお気に入りだった。

 隣市の大きな公園に出かけることになり、ショウタ君の隣には指名されたかのように富田さんが座った。

 富田さんは、ショウタ君の手を握り、自分の膝に乗せながら、リズムをとるような甘い声音で話しかけた。ショウタ君は目を大きく開けて、喜んだ。

 

 富田さんが言う。

「もう、ショウタ君ったら、社長さんなんだから」

 すると、運転している還暦の男性スタッフ相川さんが、

「ショウタ君、富田さん結婚してるからねー。ダメだよ~、それ以上」

と冗談で声をかける。

 ショウタ君が、「うー」と答える。

「そうよ、しゃ、ちょ、う」

 そう言って富田さんが、ショウタ君の腕を人差し指でやわらかくつんつんする。

 ショウタ君が、また「うー」と喜ぶ。

 富田さんは、はっきり言ってこういうネタが好きだ。しかし、ショウタ君はまんざらでもないどころか、ノリノリだ。でれ~っとした顔で、無邪気に喜ぶ。

 

 トイレ休憩のあと、私がバトンタッチすると、ショウタ君はのけぞって抗議した。のけぞるだけでなく、クルマの天井に頭をぶつける発作だ。フロイトの言う「不快から来る興奮」だ。

 これはいけない。でも……。

 同じように、手、つないでるやん!

 そう言いたくなったが、フェロモンが格段に違うのだろう。

 

 富田さんが、

「あらあら、わがまま言っちゃだめよ~、しゃちょう。今、行くから♡」

とショウタ君の耳元に後ろのシートから立ち上がってささやく。

 そして私にシッシッと交代指令を下す。

 ショウタ君の発作がみるみる収まる。

 あえなく敗退。

 しかし、すべての謎が解け、私の心は晴れ渡っていた。

 

■放デイの「劇的」とは

 

 環世界。大仰にとっては足元をすくわれる。硬い殻や境界があるのではない。

 だって、私たちはその中に自分も入り込み、かかわるのだ。

 大事なことは、ショウタ君の環世界がどんなものか、勝手にイメージしたり、観察したりすることじゃなかった。自分が入り込み、かかわることだった。たとえば富田さんのように、クラブのママを演じて揺さぶりをかけ、こころをほぐすことだった。

 そうしてはじめて、彼の環世界の意味がわかるのだ。

 

 私たちは、たとえば、小説や映画、演劇や詩といったものに触れ、登場人物の環世界に自分を重ねる。感情移入する。それはある意味、自分もその環世界で生きるということだ。

 ショウタ君の環世界は特別なものかもしれない。

 彼の大きな頭と小さな足が劇的に物語るのは、しかし、その形状ではない。

 彼がそれゆえに、どう生きているのか。かかわりあいのなかでそれに触れ、感じ、一緒に生きて初めて物語を知るのだ。

 放デイにおいて劇的であるとは、また演じるとは、一緒に生きることだったのだ。

 

■放デイとは

 放課後等デイサービスのこと。発達障害・知的障害を持つ児童を中心に、肢体に不自由がある児童、排泄自立が困難な児童も含め、小学校1年生から高校3年生までの学齢期の児童が、支援や療育を受けるために学校や自宅への送迎により集まる通所サービス。1日の利用上限は約10名。対してスタッフ34名で支援する。

 マンションの一室やビルのワンフロアなど、決して十分に広いとはいえない空間で展開している場合が多い。そこに、学齢も性格も発達の道のりも違えば、障害の混ざり具合も、特性も、表出の仕方も無限にスペクトラムな児童らが集まる壮大かつ濃密な世界が広がる。

(中山求仁子「劇的身体」第3回終了)

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