第2回 送迎車にKinki Kidsが流れるとき

第2回 送迎車にKinki Kidsが流れるとき

2020.9.28 update.

中山求仁子(なかやま・くにこ) イメージ

中山求仁子(なかやま・くにこ)

2017年から18年まで、神奈川県のとある放課後等デイサービスの管理者として勤務。自身も幼少期から横綱級ADHDであり、現在は双極性障害も発症している。
大阪大学文学部美学科音楽演劇学コース卒業。高校時代よりモダンダンス、大学入学と同時に小劇場演劇を始める。2001年退団以降、人生自体が演劇のような双極 I 型ジェットコースターライフを送っている。韓国映画と韓流ドラマをこよなく愛す。

 送迎なくして、放デイにあらず。

 おおげさではない。

 働き始めてほどなく、私は角形自動車の「キューブ」を、あちらの小学校からこちらの養護学校、そちらの中学校からまたこちらの小学校へと乗り回し、複数の市を横断しながら子どもたちを送迎していた。

 

■「かかわりあい」は、クルマに乗る前から始まっている

 

 子どもたちは、学校での出来事や感情を引きずって下駄箱にやってくる。よくよく「目で触る」ように観察して子どもの心と身体を把握し、反応する。そうしないと、放デイに着いてからの過ごしが楽しくなくなるかもしれない。

 

 子どもは自分が発している、もしくは醸しているサインが受け取られたかどうかを、すぐに見抜く鋭い直感を持っている。つまり送迎の「迎」は、子どもと支援者の協働作業に、手を携え一緒に入れるかどうかの門前の試し時間だ。単なる空間の移動ではない。

 

 無事クルマに乗り、シートベルトをしたら、私はバックミラーを、子どもの顔が見えるように調節する。間合いを見ながらの車内でのやりとりで、調子やイライラがわかるのだ。

 

■クルマという「ハコ」

 

 新しい年度になって、急にしゃべらなくなった子どもがいた。2か月ほど続いたが、ある日、うれしそうに外を眺めてているので、「きょうは何をしたの?」と聞くと、すんなり「音楽」と答えた。驚いたが平静なふりをして「そう。音楽、楽しかった?」と聞くと「楽しかった」と答えた。バックミラー越しの彼はやっぱり笑顔だった。

 しかし、放デイに着くと、またしゃべらなくなった。

 

 二人きりのクルマの中ならしゃべって、放デイに着くとしゃべらない。

 「かかわりあい」は、場によって「揺らぐ」のである。

 

 前回、私は「放デイが演劇空間に見える」と書いた。

 私がやっていた小劇場演劇では、劇場のことを「ハコ」と言う。30年くらい前、たいてい「ハコ」は、何もない小さく黒い空間だった。

 クルマという狭くて天井の低い密室空間は、演技者と観客に一体感が生まれやすい小劇場演劇の「ハコ」に似ている気がする。つまり、クルマは「かかわりあい」が生まれやすい、もうひとつの「ハコ」ともいえる。

 

 クルマでは、みな前を向いている。一緒にいながら、一人のような錯覚も生まれる。

 流れ去る景色を見ながら、独り言のようにふと本音が口から漏れ出ることは誰にもあるはずだ。

 

 ただ、この「漏れ出る」や「しゃべる」が生まれるのは、何かが確保・準備されたら必ず成立する、といったものではないような気がする。

 それらはもっと、「揺らいで」いる。このときは成功したけど、次は失敗だった、とか、そのとき一回限りかもしれない。そんな微妙で柔らかなものだと思って、「かかわりあい」に取り組んだほうがいいような気がする。

 がんばりすぎると、力の入った紋切型の演技をする役者みたいに、まるで通じない、届かないことがある。「がんばってるのに~」では、客も子どもも離れていく。

 

 自閉症者に対して、カードに描いたイラストや短文で指示を見える化したり、一日のスケジュールを壁などに貼り、理解と安心を促す方法を「構造化」と言う。この方法をひたすら追いかけることを私はあまり信じない。「がんばってるのに~」になってしまう危険があるからだ。さらに、支援者の「これは有効な方法だ」という信念と努力が、当事者を置いてきぼりにし、単一で一方通行な「かかわりあい」へと道が狭まる、そんな感覚がある。

 

 そうして作り出す「かかわりあい」は、本当に「かかわりあい」なのだろうか。私にはどうしても、ラミネートされたカードで作り出せるもののようには思えない。

 なぜなら、「かかわりあい」は「生まれる」ものだ。もっと言えば、「生まれている」ものだと思うからだ。

 

■「昼の身体」と「夜の身体」

 

 さて、送迎の「送」。それぞれの家に子どもたちを送り届ける、夕方。

 精神科医の中井久夫さんは、統合失調症の方の一日のリズムに触れ、こんなことを述べている。

 

 特に、節目が重なる時が多いのは、夕方で、特にリスクの高い時である可能性があります。“逢魔が刻”です。それまでの活動の長さのために疲労して、注意力も覚醒持続力も低下します。身体全体が「昼の身体」から「夜の身体」に変わろうとする時です。

(「時間精神医学の試み」『隣の病い』所収)

 

 「節目」とは時間的節目のことだ。人間の身体は、朝昼晩の移り変わりにホルモン分泌や睡眠等が深くかかわり、その流れにときおり節目がさしかかる。そのさしかかりを中井さんは、「移行期」と言う。

 つまり、送迎の「送」は、逢魔が刻とも移行期とも言える時間帯に、空間的な移動に挑む大胆で危険な行為だったのだ。

 

 その日、さしかかりは、子どもたちにも、そして、毎日の仕事の疲労が蓄積していた私の身体にも訪れようとしていた。

 

■クルマに生まれる不協和音の一体感

 

 後部座席には、3人の子どもが座っていた。

小2のケン君、中2のダン君、高2のリョウ君。3人とも同じ養護学校に通っていた。

 

 シートベルトを締めて「帰るよ~」と声をかけて出発した途端、高2のリョウ君がズズズと運転席に寄ってきた。「2番、お願いシマス」と言う。

 私は一拍置いて「はい」と答え、Playボタンを押し、2曲目に合わせる。

 リョウ君は知的な遅れを伴う自閉症だ。電子音が苦手で、よく耳をふさぐ。

 なのに、車でこの曲なら聴けるのだ。

 曲は、Kinki Kidsの「愛のかたまり」。

 

 ♪クリスマスなんていらないくらい 日々が愛のかたまり

 

 恋愛至上主義的な女性の心理を歌いあげたこの曲を、リョウ君はことのほか愛している。

 ちなみに、なぜKinki Kidsのアルバムが放デイの車にあるのか、それは誰にもわからなかった。

 曲が終わる。と、「2番、お願いシマス」。ふたたび、すぐにオーダーが入る。

 

 後部座席は狭い。通常なら2人なのに、3人が乗っている。左右の2人は小さくて、特に小2のケン君はか細い。やがて、運転席後ろのガラスをコンコンする音が聞こえる。

 「ああ、しまった」と思う。慌てて出たから、ケン君のヘッドギアをつけるのを忘れたのだ。

 ケン君は、ある染色体が重複する難病を患っている。不安定な気持ちが芽生えてくると、そこかしこに頭をぶつける。「ケン君、コンコン、痛いよ。すぐにおうちに着くからね」と声をかけても、しばらくたてばすぐに始まる。

 

 後部反対シートでは、中2のダン君がアヒルの鳴き声のような声を発しはじめている。ダン君はダウン症で、おばあちゃんは、その声を「喃語」と言った。

 喃語は、赤ちゃんが言葉を発しはじめるときに生まれる、口と舌やのどを使って発する音だ。ダン君は、何かを語りかけていた。喉がつぶれてしまいそうなほど、訴えている。私は「ダン君、わかったよ~。もうすぐお家だよ~」と声かけしながら、早くおばあちゃんのもとへと急ぐ。

 

 Kinki Kidsの「愛のかたまり」はエンドレスに流れ、もはやリョウ君はダブル堂本の声に重ねて「♪あい……まり~」と歌い、ハミングを始めている。ケン君のコンコンも、ダン君の喃語もおさまらない。

 坂道は下りに入ろうとしていた。

 スピーカーから

 

 ♪自分がもどかしい 今だけを見て生きていればいいのにね

 

 という歌詞が流れる。

 ああ、私もほんとうにもどかしい。

 と、急坂を下りながら思う。

 

 このまま、アクセルを踏んで、ぐわーんと空に駆け上がり、リョウ君の家に空から不時着できないかしら、なんて妄想が私の中に膨らむ。

 つまり、私はかなり特異な音の中に「今、生きている」と感じ、極限を悟る。

 その途端、私の中に、不思議な揺らぎが起こった。

 

 映画のスローモーションのような感覚でブレーキを踏み、坂の下で止まり、横断歩道を渡る人を待って右折しながら、3人の不協和音が、不思議なハーモニーとなって聞こえてきたのだ。それはまさに、コンテンポラリージャズの即興演奏のようで、そのとき、クルマの中には4人の織りなすギリギリ感漂う濃密な「かかわりあい」、つまり一体感という「シンクロ」が生まれていたのである。

 

■偶然と当然のはざまで

 

 私があの日、移行期の「魔」に逢いながらも、無事全員を家庭に送り、帰り着くことができたのは、偶然かもしれないし、当然かもしれない。なぜ当然か。私には、管理者として帰ってやるべき山積みの仕事があったからだ。それがなければ、帰ってこれなかったかもしれない。揺らぎにもっと揺られ、さしかかった波にのまれて、ブレーキのかわりにアクセルを踏んでいたかもしれない。

 とすると、私たちの生は「必然」と「偶然」に織りなされているわけではないのかもしれない。むしろ、揺らぎにより発する「偶然」と、予定の詰まった現実に前のめりになって生きる「当然」のはざまで生きているのではないだろうか。

 

 しかし、その「当然」も確かなものではなく、案外に脆(もろ)いものである。

 ともかくも、私たちはときに訪れる、生の劇的な一回性の時間に「生きている」ことがある。そういうことだろうと思う。

 

■放デイとは

 放課後等デイサービスのこと。発達障害・知的障害を持つ児童を中心に、肢体に不自由がある児童、排泄自立が困難な児童も含め、小学校1年生から高校3年生までの学齢期の児童が、支援や療育を受けるために学校や自宅への送迎により集まる通所サービス。1日の利用上限は約10名。対してスタッフ34名で支援する。

 マンションの一室やビルのワンフロアなど、決して十分に広いとはいえない空間で展開している場合が多い。そこに、学齢も性格も発達の道のりも違えば、障害の混ざり具合も、特性も、表出の仕方も無限にスペクトラムな児童らが集まる壮大かつ濃密な世界が広がる。

(中山求仁子「劇的身体」第2回終了)

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