第18回 報酬ナシで退社も不可――病気はブラック企業(2)

第18回 報酬ナシで退社も不可――病気はブラック企業(2)

2019.4.17 update.

頭木弘樹(かしらぎ・ひろき)

■文学紹介者。20歳のときに難病(潰瘍性大腸炎)になり、13年間の闘病生活を送る。


■そのときにカフカの言葉が救いとなった経験から、『絶望名人カフカの人生論』(飛鳥新社⇒新潮文庫)を出版。その後、『絶望名人カフカ×希望名人ゲーテ 文豪の名言対決』(飛鳥新社⇒草思社文庫)、『絶望読書』(飛鳥新社⇒河出文庫)、『カフカはなぜ自殺しなかったのか?』(春秋社)、『絶望図書館』(ちくま文庫)、『NHKラジオ深夜便 絶望名言』(飛鳥新社)、『絶望書店 夢をあきらめた9人が出会った物語』(河出書房新社)、『トラウマ文学館』(ちくま文庫)、最新刊は『ミステリー・カット版 カラマーゾフの兄弟』(編訳、春秋社)。


■NHK「ラジオ深夜便」の『絶望名言』(毎月第4月曜日午前4時台)と、『絶望名言ミニ』(毎月第2木曜日午前0時半)のコーナーに出演中。


■詳細はこちらをご覧ください⇒https://ameblo.jp/kafka-kashiragi/entry-12421563677.html


 

|病気の身体で生きるということ|

 

『恐怖の報酬』という映画がある。

 わずかな衝撃でも爆発するニトログリセリン。それを満載したトラックを運転して、500キロ先まで届けるというサスペンス映画だ。

 カーチェイスとか、そういうスリルではなく、ゆっくりゆっくり走るのだが、悪路での揺れや落石などで、いつドカンと爆発するかもしれないというスリルで、観る者に手に汗を握らせる。

 病気をする前に見たときは、「こんな命がけの緊張感にはとても耐えらない」と思ったが、病気をした後に見たときには、ひどく親近感を抱いた。

 

 親近感というのもおかしいが、いつ何か大変なことがあるかわからないという緊張感に耐え続けるというのは、境遇が共通している。

 病気の場合は、爆発するわけではないが、いつも気をつけていないと、何が起こるかわからない。だから、いつも気をつけていなければならない。自分の身体を慎重に運転し続けなければならない。

 

 それにしても、人間の身体というのは、本当にもろいと思う。健康であってさえ。

 歩道を歩いていて、思ったことはないだろうか。ほんの数メートル横の車道に出てしまえば、そのとたん、車にはね飛ばされて、死んでしまうか、死なないまでも重症を負ってしまう。

 じつにもろい。

 もう少し丈夫でもいいのではないかと思ってしまう。

 

 子供の頃、『トムとジェリー』というアニメーションが大好きだった。

 トムもジェリーも、身体に穴が空いても、頭がふっとんでも、全身をつぶされても、次のシーンではもう元に戻っている。

 そこには本当に夢があった。

 

 ホラー映画は苦手なのに、ゾンビ物は大好きだった。

 ゾンビは、死んでも死なない。身体をどんなに傷つけられようが、また立ち上がって、迫ってくる。なんて素敵なんだと思った。

 

 肉体のもろさ、だから細心の注意を払って生きなければならないということのつらさ、それが『トムとジェリー』やゾンビ映画を生んだのではないかとすら思ってしまう。

 

|報酬ありから報酬なしへ|

 

 人間はそもそもメンテナンスにひどく手間がかかる。

 お風呂入ったり、歯を磨いたり、服を着替えたり、食事したり、排泄したり、髪切ったり、爪切ったり、毛をそったり、長時間眠ったり……。

 もし機械だったら、「もっと簡単にメンテナンスできるようにしろ!」と苦情が出るレベルだ。

 

 それでも、誰もそんなに苦痛を感じないのは、それぞれに報酬があるからだ。

 食べればおいしい、排泄すればすっきりする、お風呂に入ればさっぱりする、眠っているときがいちばん楽しいという人もいる。

 

『恐怖の報酬』のドライバーたちも、高額の報酬があるからこそ、ニトロを運ぶ。

 

 しかし、病人の場合は、報酬がない。

 たとえば、私の場合は、排泄が頻繁になったわけだが、排泄の快感や爽快感がそれだけ増えるということにはならない。

 逆に、排泄にまつわる快感や爽快感は、まったくなくなる。ただ、苦痛のみ。排泄前も苦痛で、排泄した後も苦痛が残る。

 メンテナンスは、普通の人の何倍もしなければいけなくなるのに、報酬はなくなり、苦痛がプラスされる。

 

 病気というブラック企業では、給料さえ出ないのだ。むしろ、こちらから払わされる。

 

|病気と闘うということ|

 

 治らない病気になると、病気と「闘う」のではなく、病気とうまく「付き合う」ようにしろと言われる。

 これは、よかれと思って言ってくれているのであり、そうしたほうがいいのはたしかだ。

 もう治らないのだから、闘ってみても仕方ないと。それより、うまく付き合っていくほうがいいと。

 

 ブラック企業を辞めることができないのであれば、反抗してみても仕方ないのだから、社内でうまくやっていくしかないというわけだ。

 

 しかし、どうもこれには納得できない。

 だって、付き合いたくないのだ。

 

 好きでもない人と無理矢理に結婚させられるようなものだ。「そのほうがあなたのためなんだから」と。

 そうかもしれないけど、納得は難しい。

 

 たしかに、病気とうまく付き合っている人はいる。

 そういう人の中には、「病気になってよかった」と言う人さえいる。

「病気と闘っているときはつらかったけど、それを乗り越えて、今は病気とうまく付き合えるようになった。今では、病気になってよかったと思える。病気のおかげで、いろいろないいこともあった」と言って、やさしい人たちとの出会いとか、日常のささやかな幸福への気づきとか、いろんなことをあげる。

 それはとても感動的でもある。

 そういう境地にたどり着けて、この人たちはよかったなとも思う。

 

 しかし、私には、そういう悟りは無理だ。

 自分を騙せないという気がしてしまう。

 だって、病気にはならないほうがいいから。

 これはもしかすると、私がまだそこまで追い込まれていないということなのかもしれない。悟りの境地まで到達している人たちのほうが、そこに到達するしか生きていきようなかったほど、絶望が深かったということなのかもしれない。

 

 病気と闘うというのが、積極的な闘いなら、もっと耐えやすいだろう。

 だが、病気との闘いというのは、もっと受け身で消極的なものだ。

 これは、『ポセイドン・アドベンチャー』と『原子力潜水艦浮上せず』という2本の映画を対比してみると、そのちがいがよくわかると思う。

『ポセイドン・アドベンチャー』は、巨大な船が転覆して、上下が逆になってしまう。その中から、なんとか脱出しようとする映画だ。

『原子力潜水艦浮上せず』は、海底に沈んで動かなくなった潜水艦の中から、なんとか助け出してもらおうとする映画だ。

 よく似ているが、大きなちがいは、『ポセイドン・アドベンチャー』のほうは自分たちが頑張って行動して、助かろうとする。

『原子力潜水艦浮上せず』のほうは、なにしろ海底の潜水艦の中に閉じ込められているので、自分たちでできることは少ない。海上からの助けを期待するしかない。

 これはとても大きなちがいだ。どちらもよくできた映画なのに、『ポセイドン・アドベンチャー』のほうは今でも人気があって、『原子力潜水艦浮上せず』のほうは忘れられそうになっているのは、やはりそのちがいのせいが大きいと思う。

 

 病気をした後に、『原子力潜水艦浮上せず』を見て、やはり共感せずにはいられなかった。

 病気も、自分で努力できることは少ない。医師の助けに頼るしかない。海底で、水圧に押しつぶされる不安と恐怖に耐えながら、ただ待つことしかできない。

 待っている間にも、あちこちから水が漏れ始めたり、無線が壊れたり、いろいろな問題が次々と起きる。

 

 こんな状況と、うまく付き合っていけるとは、私にはとても思えない。

 

|呪術的思考|

 

 病気にあんまり追い詰められると、悟りを開くだけではない。

 だんだん、呪術的思考も強くなってきやすい。

 

 山田太一の小説『終りに見た街』によると、太平洋戦争中、

「金魚を拝んでると爆弾がよけて落ちる」

「朝飯をらっきょうだけですますと、弾丸に当らない」

 というような迷信がたくさんあったそうだ。

 アメリカ軍の空襲というのは、民間人にはどうしようもない。問答無用に頭の上から降ってくる。自分の近くに落ちないことを願うしかない。

 自分の力ではどうしようもなくて、しかもその不安と緊張が休みなくずっと続くとき、人は金魚でもらっきょうでも信じ始めてしまう。

 それをバカバカしいと笑うのは簡単だが、そう笑った人でも、同じ状況におかれれば、きっと金魚を拝んでしまうと思う。

 少なくとも、「自分も拝んでしまうかも」と思えるくらいの人でなければ、そういう人たちを批判することはできない。

 

 病気になった人は、あきらかにおかしな自然療法や、新興宗教などにはまってしまいやすい。

 それもまったく同じことだ。

 だから、「そんなバカなこと」といくら言ってみたところで仕方がない。

 

|いつも機嫌よくするしかない|

 

 私は病院で、「よく頑張る」とか「我慢強い」とか看護師さんに言われた。

 とても意外だった。看護師さんでもそんなふうに思うのかと(べつに非難ではない。ただ意外だっただけ)。

「よく頑張る」もなにも、頑張らなければ大変なことになってしまう。

 崖から落ちそうになって、全力でよじ登ろうとしない人間がいるだろうか? そこに「よく頑張りますね」と声をかけられれば、びっくりしてしまう。

 

「我慢強い」というのも、じつはまったく我慢強くない。

 我慢しなければ、とめどがなくなってしまうからだ。本当は、幼い子供のように、床でじたばたして、「病気なんかイヤだ」とだだをこねつづけたい。

 しかし、そんなことをすれば、かえって精神がもたなくなってしまうのではないかという恐怖がある。

 

 ある看護師さんからは、「そんなに暗い顔をしないの」と、何十回も注意された。

 暗い顔をしているつもりはなかったけど、そのときは、輸血も検討されたほどの貧血状態で青い顔をしていたし、一度に体重が26キロくらい落ちて、げっそりしていた。

 だから、どうしたって、元気のない顔になってしまう。

「無理を言うなあ」と思っていたが、病院では痛みでもがいたりしている人は別として、症状がある程度落ち着いているときには、かなり明るくしていることを求められる。

 

 この看護師さんのようにはっきりそう言う人は珍しいが、明るく振る舞っている患者さんのほうがほめられるし、好かれる。

 入院中は、医師と看護師さんに命を握られているわけで、どうしても好かれたいという卑屈な気持ちが強くなる。

 そのため、みんな、明るく振る舞おうとする。

 

 六人部屋の仲間どうしも、ケンカとかすると気まずくなるから、なるべくもめないよう、笑顔で接しようとする。

 

 機嫌よくしていようというのは、もちろん、いい心がけだ。

 機嫌よくしていれば幸せが舞い込んでくる、なんて言う人もいるくらいだ。

 しかし、入院は、毎日24時間ずっとだ。休みがない(外出許可の出る人は別として)。それが何か月も続くと、いい心がけどころの話ではなくなってくる。

 いろんな感情の入っている鍋なのに、つねにご機嫌しか取り出さないのだ。あとの感情はフタをされて、ごとごとと音を立て始める。

 まあ、たいていは家族とケンカをする。当たれる相手は家族しかいないからだ。

 当たれる家族もいない人は、じつに悲惨なことになる。

 

 私が失感情状態になったのも、漏らしたためだけではなく、おそらくは、長いこと、感情を抑制し続けたせいもあったのだと思う。

 抑制が限界に達したのだろう。

 失感情状態というのは、じつに気持ちが悪い。自分でも無気味なのだ。

 

悲しみは最悪のことではない。

                             ( カフカ「日記」)

 

 という言葉の意味が初めてわかった気がした。

 悲しめるのは、まだ感情が生きている状態で、さらにもっと底がある。 

 

|ワーッと無茶やる|

 

 看護師さんが私に、「よく頑張る」とか「我慢強い」とか言ったのは、じつは無理もない面がある。

 というのは、頑張らない、我慢しない患者さんもいるからだ。

 しかし、じつはそういう人のほうが、勇気がある。

 

 前にも書いたように、私には暴飲暴食へのあこがれがある。

 ずっと、食べものに気をつけつづけている。そのことにうんざりしてしまう。

 無茶をしたくなる。

 でも、我慢する。頑張って我慢する。でないと、大変なことになるから。

 

 ところが、大変なことになるのはわかっていながら、そこで我慢しない人もいる。

 これは、ただ意志が弱いとか、そういうことではないと思う。

 休みのない病気というものに対する反逆だ。

 

 たとえば、こういうおじさんがいた。

 まだ私が入院したばかりで、二人部屋に入ったときに、相部屋になった人だ。

 どういう病気なのかはわからないが、看護師さんから何度も、「納豆を食べないように」と注意されていた。

 

 ある晩、寝ていたら、隣りのベッドとの境のカーテンの下から、何かが流れてきた。水にしては黒々としている。よく見ると、これが血だった。血が床にひろがっていた。

 びっくりして、あわててナースコールを押した。

 看護師さんやお医師さんが急いでばたばたとやってきて、処置をした。けっこう大変そうだった。

 命に別状はなかったが、翌朝、そのおじさんが看護師さんから怒られていた。

「納豆食べたでしょう!」

 どうやらそのせいで夜中に大出血してしまったらしい(医学的な知識がないので、なぜ納豆でそんなことが起きるのかはわからないが)。

 そのおじさんは、納豆を食べると、こうなることは、よくわかっていた。でも、食べた。

 

あとで一週間嘆くことになるとわかっていて、

誰が一分間の快楽を求めるだろうか?

これから先の人生の喜びのすべてと引き換えに、

今ほしい物を手に入れる人がいるだろうか?

甘い葡萄(ぶどう)一粒のために、

葡萄の木を切り倒してしまう人がいるだろうか?

                                   (シェークスピア『ルークリース』頭木訳)

 

 いるのである。

 おじさんは、それをやったのだ。

 

 納豆というのは、アルコールのように中毒性があるわけではない。だから、我慢しきれなかったということはないはずだ。いくら好きだとしても、大出血するとわかっていたら、食べないはずだ。

 だが、おじさんは食べたのである。

 

 そのときは、私はまだ病気になったばかりだったから、「無茶をする人がいるなあ」とただびっくりしただけだった。

 しかし、今となると、おじさんの気持ちがよくわかるような気がする(勘違いかもしれないが)。

 おじさんは、ずっと気をつけ続けていることに、ほとほと嫌気がさしたのではないだろうか?

 休みのない病気というものに、たまらなくなったのではないだろうか?

 

 それで反逆を起こしたのだ。

 食べてはいけないものを、食べてやったのだ。

 そんなことをしたって、なんにもならない。困るのは自分だけだ。そして、医師や看護師さんや同室の男には迷惑をかけることになる。

 しかし、それでもやったのだ。

 

 山田太一脚本の『シルバー・シート』というテレビドラマがある。『男たちの旅路』というシリーズの第三部の第一作だ。

 老人ホームの老人たちが、市電をジャックする。しかし、それだけのことをしておいて、何も要求しない。メッセージを発することもない。

 ある男が代表して、老人たちの気持ちを聞きに行く。しかし、老人たちは、何も主張するつもりはないと言う。言ったって、あんたたちにはわからないし、どうしようもないことだと言う。

 代表の男は、老人たちを非難する。どうしようないことで、言ってもわからないというなら、どうしてこんなことをしたんですか?と。

 そのときに老人のひとりがこう言う。

 

「それでもな、それでも、ワーッと、ワーッと無茶やりたくなる年寄りの気持を、お前は、あんたは、わからねえんだ。わからねえんだ。お前には──」

                                     (『山田太一作品集4 男たちの旅路2』大和書房)

 

 ここは何回見ても、泣いてしまう。

 

 私には、納豆のおじさんのような勇気はなかった。臆病で、そういうことができなかった。

 病気というブラック企業に、たとえムダでも、ワーッと反旗をひるがえしたおじさんに、今の私はとても強いあこがれを感じる。

 

(頭木弘樹『食べることと出すこと』第18回了)

 

 

 

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