第17回 24時間365日休みナシ――病気はブラック企業(1)

第17回 24時間365日休みナシ――病気はブラック企業(1)

2019.4.17 update.

頭木弘樹(かしらぎ・ひろき)

■文学紹介者。20歳のときに難病(潰瘍性大腸炎)になり、13年間の闘病生活を送る。


■そのときにカフカの言葉が救いとなった経験から、『絶望名人カフカの人生論』(飛鳥新社⇒新潮文庫)を出版。その後、『絶望名人カフカ×希望名人ゲーテ 文豪の名言対決』(飛鳥新社⇒草思社文庫)、『絶望読書』(飛鳥新社⇒河出文庫)、『カフカはなぜ自殺しなかったのか?』(春秋社)、『絶望図書館』(ちくま文庫)、『NHKラジオ深夜便 絶望名言』(飛鳥新社)、『絶望書店 夢をあきらめた9人が出会った物語』(河出書房新社)、『トラウマ文学館』(ちくま文庫)、最新刊は『ミステリー・カット版 カラマーゾフの兄弟』(編訳、春秋社)。


■NHK「ラジオ深夜便」の『絶望名言』(毎月第4月曜日午前4時台)と、『絶望名言ミニ』(毎月第2木曜日午前0時半)のコーナーに出演中。


■詳細はこちらをご覧ください⇒https://ameblo.jp/kafka-kashiragi/entry-12421563677.html


 

忘れねばこそ思い出(いだ)さず候(そうろう)

                        (高尾太夫(たかおだゆう)「仙台藩主・伊達綱宗への手紙」)

 

 

|「病気の休日」がほしい|

 

「自分で行くのは面倒くさいから、代わりにトイレに行ってきて」

 という、くだらない冗談。

 他のことなら代わってもらえるのに、トイレは代わってもらえない。あたりまえだけど、なんだか少し不思議。

 

 病気もまた、人に代わってもらうことができない。

 でも、「ちょっとだけ代わって」と言いたい。すごく言いたい。冗談どころか、切実な心からの願いとして、「ほんのちょっとだけでいいから代わって」と言いたくなる。

 

 なぜかというと、病気には休みがないからだ。

 病気をしている間は、ずーっと病気である。

 カゼで1週間くらい熱が続いたりすると、「ああ、ちょっと休みたい」と思うことはないだろうか? 10分でもいいから、ほっとひと息つきたいと思ったことはないだろうか?

 

 病気の状態が、1週間どころか、1か月、1年、10年と続いていけば、これはもう休みが切実に欲しくなっても当然だろう。

 その間、毎日毎日、24時間、ずっと病気なのだ。

 どんなブラック企業でも、ここまでひどくはないだろう。

 

 しかし、休暇を寄こせと訴える先もない。デモ行進してみても仕方ない。

 病人なのに、さらに過労死しそうな状況で、ただ耐えるしかない。

 

 長く病気をしている人間の、いちばんの願いは、病気が治ることだが、次の願いは、ほんのいっときでいいから、「病気の休み」が欲しいということではないだろうか。

 

 子供が病気をしたりすると、親は「私が代わってあげたい」と言う。

 そういうのを聞くと、本当にそれができたら、どんなに素晴らしいかと思う。

 ずっと代わってもらうのではなくても、週に1日でもいいのだ。

 週に1日だけは、病気を他の人に代わってもらって、自分は元気になる。そして、行きたいところに行って、やりたいことをして、自分が病気であるということを、その日だけは忘れて、なんにも身体のことを気にせずに過ごす。

 これはもう本当に甘美な夢だ。

 代わってくれた人に、どれほど感謝するかしれない。

 

 藤子・F・不二雄の短編漫画『未来ドロボウ』で、病気で寝込んでいる大金持ちの老人が、健康や若さよりお金だと思っている中学3年生と、お互いに合意の上で、身体を交換する。

 もちろん、中学生は激しく後悔する。

 大金持ちの老人のほうは、若くて健康な身体を手に入れて、何をやっても楽しく、「しあわせすぎる……」と涙する。

 ところが、ラストで大金持ちの老人は、身体を中学生に返して、「わずか数日のいれかえだったが わしにはなん年にもあたる 充実した 毎日だったよ」と、満たされた気持ちで死んでいく。

 

 これを最初に読んだときには、「自分だったら絶対に身体を返さない」「このラストは、いい話にしすぎじゃないか」と思った。不満だった。藤子・F・不二雄が大好きだったのに、「病人の気持ちがわかっていない」とすら思った。

 でも、病気の期間が長くなると、逆にこれこそ真実だと感じるようになった。

 たった数日でも、完全に元気に過ごせたとしたら、どんなに感動し、どんなに満足するかしれない。それまで苦しんできただけに、感動も大きいのだ。そして、それを与えてくれた少年に、むごいことはできないだろう。

 藤子・F・不二雄はやっぱりさすがだった。

 この身体を返すシーンがあるからこそ、何回読んでも泣いてしまう。

 

|病気のことを忘れたい|

 

 昔、吉原の名妓(めいぎ)、高尾太夫(たかおだゆう)は、仙台藩主の伊達綱宗に、手紙で、

 

忘れねばこそ思い出さず候

 

 と書き送ったという。

 あなたのことを思い出したりしません、なぜなら片時(かたとき)も忘れていないからです、という意味で、伊達綱宗はいたく感激したという。

 

 病気というのも、まさに「忘れねばこそ思い出さず候」で、片時も忘れることができないので、思い出すということもない。

 この「病気であることを忘れる」という瞬間がないということが、とても苦しい。

 

 以前、ある医師とプライベートで会ったことがある。

 その方は名医で人格者でもある。

 慢性痛の患者さんをたくさん診ておられるようだった。

 そういう患者さんは、いらだっていることが多く、怒鳴られたりしてあやまっているということだった。

 大変だなあと思った。

「(そういう患者は)自分だけが大変なようなつもりでいる。誰でも大変なことがあるのに、それをわかっていない」

 そう言って、その医師はジョッキでビールをおいしそうに飲んだ。

「そうですね」と相づちを打つべきだったが、できなかった。

 

 たしかに、誰でも大変なことはある。そして、慢性痛の人の大変さより、その医師の大変さのほうが、はるかに上なのかもしれない。

 しかし、たとえ百倍、医師のほうが大変だったとしても、勤務時間を終えれば、こうしてビールを飲んで、ひと息つける。緊張を解いて、くつろげる。そういう時間を持てる。

 しかし、慢性痛の人の場合、慢性痛は夜の何時で終わりということはない。痛みは断続的な場合もあるのだろうが、不安と緊張はずっと途切れることがないだろう。

 このちがいは、とても大きい。

 ずっと走り続けるのと、ときどき休みながら走り続けるのとでは、ぜんぜんちがう。

 休みがないということは、どれほど人を消耗させ絶望させるかしれない。

 

 つらさというとき、レベルで考えがちだ。

 レベル5のつらさより、レベル10のつらさのほうが大変というふうに。それはもちろん、その通りだ。

 ただ、たとえレベル1のつらさでも、ずっと継続すると、それはそれで大変になっていく。だから、レベルだけでなく、時間という要素も見逃せない。

 さらに、その時間に関しても、「休み」があるのかないのかが重要。

 それが、24時間365日、ずっと病人でありつづけた経験からくる、私の実感だ。

 

「継続は力なり」と言うが、まさにその通りで、ずっと病気をしていると、そのことを思い知らされる。

 

|途切れない信号|

 

 映画だかドラマだかで、不思議な拷問(ごうもん)を見たことがある。

 殴っても蹴っても、普通の拷問では口を割らない男を、ベッドに固定して、額のところに、ぽとんぽとんと、水滴を落し続けるのだ。

「どんな拷問にも耐えるやつでも、これを耐え抜くことはできない。何日かすれば、おまえは許してくれと泣いて頼むことになる」

 と悪人がニヤリとする。

 すごく不思議で印象に残った。額に水が一滴ずつ垂れてくるなんて、まさに痛くもかゆくもない。こんなのが拷問になるのかと思った。

 

 しかし、長く病気をしていると、ずっとある種の刺激、サインが届き続けるということが、どれほど苦痛かよくわかる。

 病気をすると、問題のある器官に気持ちが集中する。どうしても意識がそこに向かう。痛みなどがあって、意識せざるを得ないこともある。

 この連載の第1回目でも引用したが、

 

健康であれば、わたしたちは器官の存在を知らない。

それをわたしたちに啓示するのは病気であり、

その重要性と脆(もろ)さとを、

器官へのわたしたちの依存ともども理解させるのも病気である。

ここには何かしら冷酷なものがある。

器官のことなど忘れようとしても無駄であり、

病気がそうはさせないのだ。

                             (シオラン『時間への失墜』金井裕訳、国文社)

 

 まさにこういう状態になる。

 私の場合だと大腸だが、普通は大腸なんて、お腹でもこわさなければ意識しないだろう。どこにどうあるのかよくわからない人も多いと思う。

 しかし、私の場合は、ちょっと動いたとか、少し痛いとか、いろんな小さな信号にまで、いちいち意識が反応してしまう。そして、「これは問題ないだろう。きっと大丈夫だ」とか「これは少し心配だ。もう少し様子を見よう」とか、いちいち判断し、心配したりしてしまう。

 敵軍がいつ迫ってくるかわからなくて、ピリピリ神経をはりつめてレーダーを見つめている兵士のようなものだ。

 何日かとまでは言わないが、何年もすると、まさに「もういやだ。許して欲しい」と泣いて頼みたくなる。

 問題は、頼む相手がいないということだが。

 

「長い入院中に、いろいろ原稿を書かれたんでしょうね」と聞かれることがある。

 たしかに、そういうことをする人もいる。

 しかし、それは本当に立派な人たちだと思う。

 私は、入院中は、本を読んだりするのがせいいっぱいで、収入のために何かしなければとベッドの上で何か書こうとしたが、とても難しかった。

 

 というのも、お腹からつねに信号がやってくるからだ。

 不快な信号に耐えながら仕事なんてできない。

 ピンポンチャイムを鳴らされ続けながら仕事をするようなものだ。

 それができる人は、本当にすごいと思う。

 

|肉体にとらわれる|

 

 多くの宗教では、魂と肉体を別々のものとしてとらえている。

 それは、肉体は滅んでも魂は残るという不滅願望が主な理由だろう。

 しかし、それだけではなく、もうひとつ理由があるような気がする。

 魂と肉体が一体であることに、人は疲れ果てるのではないだろうか?

 病気ではない普通の人でも、同じ肉体でずっと生きるということは疲れるんだと思う。

 

我々は自分の皮膚の中に捕らわれている。

  (ウィトゲンシュタイン『ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記』鬼界彰夫訳、講談社)

 

 これをウィトゲンシュタインがどういう意味で言ったのかはわからない。

 だだ、こういう閉塞感を覚えたことのある人は少なくないのではないだろうか。

 

 肉体からくる制約、痛みなどの信号、容姿、そういうものから自由になって、魂のみで飛び回りたいという思いが、誰しもどこかにあるのではないだろうか。

 

 少なくとも、別の人になってみたいと思ったことは、たいていの人にあるだろう。

 1日だけ鈴木拡樹になりたいとか、1日だけ新垣結衣になりたいとか、1日だけメッシになりたいとか、1日だけ鳥になりたいとか……。

 そういう願望を抱いたことがあるだろう。

 

 そういう妄想は決して無意味ではなく、同じ精神でも、肉体が異なると、ずいぶんちがってくることに気づかされる。つまりは、肉体によって、ずいぶん制限を受けているわけだ。

 車に乗ると、性格が変わる人がいる。車と一体化することで、肉体的にパワーアップし、性格が変化するのだろう。

 

 お酒を飲んで酔いたくなるのも、ずっと同じ自分でいることに対する一種の休憩なのではないだろうか? お酒を飲んで、まず麻痺するのは、自分自身を見つめる機能らしいし。

 ぐでんぐでんになるのも、肉体の制約から解き放たれて、魂が自由になろうとしているのかもしれない。──というのは考えすぎかもしれないが、そう思うと、ぐでんぐでんになっている姿も、少し素敵な気がしてくる。

 

(頭木弘樹『食べることと出すこと』第17回了)

 

 

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