第29回 6年間の泥沼から抜け出す

第29回 6年間の泥沼から抜け出す

2019.4.15 update.

樋口直美(ひぐち・なおみ) イメージ

樋口直美(ひぐち・なおみ)

1962年生まれ。50歳でレビー小体型認知症と診断された。
2015年に上梓した『私の脳で起こったこと――レビー小体型認知症からの復活』が、日本医学ジャーナリスト協会賞を受賞。
思考力自体には問題はないが、空間認知などさまざまな脳機能障害のほか、幻視、自律神経障害などがある。
自分で手作りした下記サイトには講演動画や原稿や記事を集めてありますので、どうぞ。
https://peraichi.com/landing_pages/view/naomi
また本連載の目次サイトはこちら⇒https://peraichi.com/landing_pages/view/gosadou

 

主治医が替わり、薬が替わってからは、命を脅かされるような副作用はなくなりました。

 

ただ頭は常にぼんやりとし、のろのろとしか動けません。穏やかな生活が戻ったので久しぶりに本を開いてみましたが、意味がなかなか頭に入ってきません。読む行も頻繁に間違え、読書を一度中断するとそこまでの内容をまったく思い出せず、驚きました。本を変えて軽い小説を読み始めても主な登場人物の名前が覚えられず、筋を追えないので、本を読むことは諦めました。

 

本は子どものころから好きで、健康だったときには毎日何冊かを同時進行で読んでいました。本が読めないことは、今考えれば深刻なことです。しかしそのときはショックを受けませんでした。うつ病を経験した友人から「うつ病になると本も読めなくなる」と聞いていたので、「これも病気の症状なんだ。いっときのことだ」と受け入れていました。

 

■本が読めるようになり、新しい仕事に挑戦

 

ほとんど外出もせずにひっそりと生活を続けていると、数か月で状態も落ち着き、薬は減っていきました(初めて受診した2004年6月の半年後には2種類飲んでいた睡眠導入剤のうちアモバンをやめ、ロヒプノールが2錠から1錠に。翌年1月には、抗不安薬と説明されていたレスリンが3錠から1錠になり、ロヒプノールを中止。2月には抗うつ剤のアモキサンが3錠から2錠になりました)。

 

すると頭がはっきりしてきて、本が読めるようになりました。気力も出てきて、うつ病を1日も早く治したいという気持ちが高まりました。病院では「しっかり薬を飲んでください」という以外の具体的な指導(運動や栄養など)はなかったと記憶しているのですが、私は、薬だけでは治らないだろうと感じていました。心理カウンセリングを受けたら改善するのだろうかと思って調べたことがありましたが、1回1万円という料金は、収入のない自分には手が届かないものでした。

 

私は、認知行動療法、呼吸法、瞑想など、さまざまな本を読んでは、独学で次々と試しはじめました。もともと調べること、新しいことを試してみることが好きです。うつ病に効果がありそうだと思い、ヨガも始めました。毎日夜明け前には目が醒めるので、暗いうちから散歩をするようにもなりました。運動が脳に良いと思ったからです。公園の小山の上で、登ってくる太陽の光を浴びていると、皮膚を通してエネルギーが染み込んでくるようでした。「大丈夫。私はきっと治る」そう信じられました。

 

私は回復してきたことがとてもうれしく、もっと積極的なリハビリをしたいと考えはじめました。短時間でも仕事をすれば、頭も体も使い、完全に失った社会とのつながりを回復し、もっと元気になれるだろうと思ったのです。

 

「毎日一人で家にこもっているのは良くないと思うので、外に出て何か少し仕事をしたいと思っています」

「仕事ですか? 仕事より趣味にしたらどうですか? 仕事は勧められません。もしどうしてもというなら、なるべく暇で、楽で、責任のない仕事にしてください」

 

私は主治医のアドバイスどおりの短時間の仕事を探しはじめました。しかし「暇で楽な仕事」はありません。「責任のない仕事」は体がつらそうでした。せめて座ってする仕事なら楽かと思い、新しくできたコールセンターに応募し、大量採用の1人になりました。

 

■だけど覚えられない……

 

しかし研修に入ると、手順が覚えられないのです。私より年配の人たちが苦もなくできる操作が、私一人だけどうしてもできません。「家で覚えてきたいのでマニュアルを持って帰りたい」と講師に頼みましたが、社外秘だと断られました。

 

講師も研修仲間も「覚えられない」ということが理解できず、私を見る目が変わっていきました。誰より私自身が、なぜここまでできないのか理解できませんでした。うつ病は記憶力を失う病気だったのかと青ざめましたが、研修は進んでいきます。呆れた目で見られるたびに「私は病気なんです!」と叫びたくなりましたが、うつ病の治療中であることは、面接のときから隠していました。言えば採用はないと思ったからです。

 

結局、何も覚えられないまま、私は研修途中で辞めました。不眠、頭痛、倦怠感をぶり返していましたが、それ以上に自分のぶざまな姿に耐えられなくなっていました。「これは病気の症状で、できなくても仕方がない」と考える冷静さはなく、ただ恥ずかしさとみじめさに切り裂かれていました。

 

受診すると、抗うつ剤(アモキサン)も抗不安薬(ワイパックス)も増えました。そしてまた私は「うつ病患者」として、ぐったりとぼんやりと過ごす日々に戻ったのです。

 

■幻聴も幻視もそれと気づけない

 

このころ、今もたまに聞こえる「夕焼け小焼け」の幻聴を初めて体験しました。何度も繰り返しはっきりと聞こえるのですが、幻聴という言葉は思いつきませんでした。人の声が聞こえるのが幻聴だと思っていたからです。受診のとき、この体験を説明し「なんでしょうか?」と聞くと、主治医はただ首を傾げていました。うつ病の症状でないなら、空耳の一種だったんだなと思いました。

 

もしそのとき医師が、他の幻覚についても質問していたら……。

 

「何かを人や動物と見間違えたり、壁のシミなど曖昧なものが人や動物の顔に見えたり、おかしな目の錯覚を経験したことはないですか?」と聞けば、うつ病ではなく、ごく初期のレビー小体型認知症(レビー小体病)である可能性に気づけたかもしれない。そう考えたのは、この7年後の2012年にレビー小体型認知症を疑って、初めて専門医を受診したときです。うつ病と診断されたとき、すでに幻視を経験していましたが、目の錯覚と思っていましたから、医師に伝えたことは一度もありませんでした。

 

それでも、医師を責める気持ちはまったくないのです。私がうつ病と診断された2004年当時、レビー小体型認知症という病名や症状の詳細を知っていた医師がどれだけいたでしょう。私自身、病名すら知りませんでした。広く知られていない病気の患者が適切な診断名と治療にたどり着くまでには必ず困難があり、不運としか呼べない長い年月があることを、さまざまな闘病記を読んで知りました。

 

■今度はコンビニへ

 

私はうつ病治療をしていたあいだ、私の病気を理解しているごく親しい友人以外とは、会うことを避けていました。うつ病の診断前は、複数のグループに属していろいろな活動を楽しんでいましたが、すでにすべてから抜けていました。最悪の時期からはずいぶん回復したとはいえ、見た目も中身もすっかり別人になったことは自覚していました。一度、ばったり会った知人から憐れみの目で見られたことは、忘れられません。定期的に参加していた地域の集まりからも遠ざかりました。

 

「うつ病だなんて情けない」「そんなに心の弱い人じゃないと思っていたのに」と2人の年配者から言われ、うつ病への根強い誤解と偏見も知りました。私の病気を知った人たちから腫れ物に触るように扱われることも嫌でした。

 

仕事を辞めてふたたび家にこもり、温室の植物のように生活していると、体調不良は落ち着き、増やされた薬は減ります。そしてまた元気が出てくると、「こんな隠遁生活をしていたら一生治らない」と思いはじめます。人とのつながりを取り戻さなければと思うのです。しかし活発だった私を知っている人よりは、今の私しか知らない人のほうが、比較される心配がないような気がしました。

 

私は、ふたたび病気を隠して駅前のコンビニでパートの仕事につきました。自宅の最寄駅ではないので、知人と出くわす心配もありません。レジの仕事は、ぼんやりした私にもできそうに思えました。カウンターを隔てた簡単な接客は、人を避けてきた自分には、よいリハビリになるかもしれない……。

 

しかし始まってみると、ほとんどの時間は裏に居て、休む間もない肉体労働でした。そして私の記憶力が、まったく回復していないことにも気づかされました。店の棚から減った商品を補充する作業も、裏に行くと商品を忘れ、もう一度見に行かなければいけません。複数の商品の補充となると、急いでメモをしても頭が混乱し、毎回間違えては慌てていました。発注の仕方を教えられても頭に入らず、努力すればきっとできるはずだと、自分でつくった仕事のノートを自宅でも繰り返し見て覚えようとしましたがダメでした。初めて一人で発注したとき、間違えて大量の商品が届き、店長から「あなたには2度とさせない」と言われました。

 

同僚たちも話しかけてこなくなりました。コールセンターのときと同じ泥沼に、私は沈んでいきました。辞めると伝えたとき、店長は笑いながら言いました。「あなたみたいな人はね、仕事に向いてないんだよ。家で主婦やってた方がいいよ」

 

そしてまた増える薬の種類と量。

頭にかかる濃い霧。

植物のような生活。

 

■ふたたび地獄のルーティンへ

 

私はすっかり無能になり、使い物にはならず、社会からまったく必要とされない人間になったのだと思いました。泣くでもなく笑うでもなく、何をするでもなく、それでも毎日はどこかに流れていくようでした。そんなある日、ラジオから平原綾香のジュピターが流れてきました。「夢を失うことより、自分を信じられないことのほうが悲しい」と聴いたとき、突然、正気に返ったように感情が蘇りました。

 

「どうして私はこんなに情けない人間になってしまった? なぜ治らない? いったいいつまでこれが続くんだ?」

 

疲れてぐったりするまで泣いてから、麻痺したような頭で思いました。私はこのまま何の役にも立たずに、ただ年老いていって死ぬんだな……。うつ病患者として薬を飲み続けた6年弱の間に死にたいと思ったことは一度もありません。でも、自分に価値があるとも思えませんでした。

 

私は、うつ病が治るという希望を完全に失っていました。

毎月欠かさず病院には通っていましたが、自分から何か質問しようという意欲も、良くならない苦しさや悩みを話す気持ちにもなりませんでした。

 

「どうですか?」

「あまり変わりません」

 

毎年替わるどの主治医も冷ややかに、興味なさそうに同じことを聞き、電子カルテを見ながらカチカチと何かを打ち込み、「では、同じお薬を出しておきます」と言って短い診察は終わりました。

 

無機質な診察室を出て、長い廊下を歩き、広いロビーの隅に置かれた自動販売機のような機械に行って診察代1400円を入れる。出てくる領収証と来月の予約票と処方箋を取ると、病院を出て薬局に行き、お金を払い、薬を持って帰宅する。毎月毎月、何年も繰り返されるそのルーティンに意味は感じられず、終わりも見えず、虚しさだけを意識する通院でした。

 

■この「風邪」はいつ治るのだ!?

 

体調が少しでも安定すると、「薬をやめたい」と毎年替わる主治医には伝えていました。抗うつ剤が効いたと感じたことはありません。病前のような元気はありませんでしたが、薬をやめても変わらないのではないかと思っていました。しかし返ってくる答えは、どの医師もまったく同じでした。

 

「薬をやめたらもっと悪くなりますよ。うつ病は、再発しやすい病気なんです。最低半年、できれば1年間良い状態が続けばいいですが、そうでない限り薬は続けてください」

 

体調の良い状態が半年続いたことはありませんでした。季節の変わり目も梅雨も体調の悪い日が増えました。それでも主治医が替わるたびに「薬をやめたい」と伝え続けました。医師の言葉に従っていたら、薬をやめられる日など来ないのではないかと思いました。

 

「私は、いつまで薬を飲み続けるんですか?……一生ですか?」

「お勤めをされている人は、定年まで飲んだり……。まあ、一生飲み続ける人もいますよ」

 

私が最初にうつ病と言われて本で調べたとき、「薬をしっかり飲めば数か月から半年でよくなる」と書かれていました。私はそれを100%信じていました。だからどんどん悪化していったときでも、薬さえ飲めば必ず治るのだと思って、すがるように薬を飲み続けました。

 

うつ病が、なぜ「一生薬を飲み続ける病気」になるのか、私には理解できませんでした。当時、「うつ病は、心の風邪」★1という言葉をテレビでも新聞や雑誌でもよく目にしました。

 

私にとって、一時期は「瀕死の肺炎」でしたが、それでも必ず治る病気だと診断されたころは信じていました。「風邪」で病院に行って、「風邪薬」を一生飲み続けることになる? それはいったいどういうことなのだろう……? 私は疑問と強い違和感を覚えましたが、何がどう間違っているのか、そのときの私にはわかりませんでした。そうして初診のときに中学生だった子どもたちは、大学生と高校3年生になっていきました。

 

この間の自分の写真はほとんどありません。数少ない写真を見ると、生気のない顔で、年よりもずっと老けて見えます。服も地味で目立たないことを基準に選んでいました。うつ病の治療をしていたあいだ、おしゃれをしたいと思ったことがありません。誰の目にも留まらず、居ても居ないかのように見過ごされる存在でありたいと思っていました。私は変わってしまった自分を見られたくなかったのです。

 

■7人目の主治医

 

長い通院に終止符を打ったのは、7人目の主治医でした。「今日から私が担当することになりました」と若い男性医師に挨拶されたとき、「この人で何人目だろう……」と思いました。

 

「体調の波はあるが、落ち着いて生活できている」と伝えると、2錠だった抗うつ剤(アモキサン25mg)が1錠になりました。5年2か月間飲み続けた抗不安薬(ワイパックス。ベンゾジアゼピン系)も初めて中止になりました。異常な不安に襲われることがなくなった2004年秋に「抗不安薬はもう必要ないと思います」と主治医に伝えましたが、「抗うつ剤と一緒に飲むことで効果が高まるんです。不安がないと思っても飲み続けてください」と説明され、そのまま再検討はなく2009年まで飲み続けていたのです★2

 

薬が減ると、1か月間ほど寝付けない日が多くなりました。ベンゾジアゼピン系薬剤の依存性や離脱症状については何も知らず、薬の量を戻したほうがいいのだろうかと何度も考えました。しかし薬に頼らない生活を取り戻したいと思い続けてきたので、眠れないことは気にしないことにしました。

「今日眠れなければ、明日は眠れる。2日眠れなければ3日目には眠れる。眠れなくたって死にゃあしない」。そう考えると楽になりました。

 

そのころ最も親しい友人と会ったときに、「元気になったね」と言われました。不眠に気を取られて良い変化は自覚していなかったのですが、ずっと私を見てきた友人が変化を指摘するのだから、薬を減らしてよかったのだと納得できました。その後は、明らかに以前より調子がよくなりました。次の診察のとき、私は毎年主治医に繰り返してきた言葉を伝えました。

 

「体調もよくなっています。私、薬をやめたいです」

 

返ってくる言葉は、どうせ同じだろうと思っていました。しかし、新しい主治医の目が見開きました。

 

「やめましょう! すぐやめましょう!」

 

まったく予期しなかった言葉に、私の方が驚き、慌てました。

 

「えっ? そんな、すぐに止めても大丈夫なんですか?」

「不安ですか? 徐々に減らしていけば、大丈夫ですよ」

「1錠のカプセルをどうやって減らすんですか?」

「2日に1錠にしてみましょう」

 

今度は何の苦労もなく抗うつ剤をやめることができました。

 

■治った!!

 

本は以前のハイスピードで読めるようになり、元気だったころの多読に戻りました。友人に勧められて登録はしたものの、使い方がさっぱりわからなかったSNSも「急に使い方がわかるようになった」と当時の日記に書いています。好きだった運動もまた心から楽しめるようになり、毎日ジョギングをしていました。気持ちは晴れやかで、何か新しいことをしたいとうずうずしてきます。

 

「やった! 治った! うつ病が治った!」

 

精神科を初めて受診してから6年近くが経っていました。薬の知識のなかった私には、その6年間が何を意味していたのかもわかりませんでした。それよりも元気な自分に戻れたことが、ただただうれしくて、「治った〜!」と叫びながら走り回り、跳ね回り、転がり回りたい気持ちでした。

 

「私は復活した。私は生き返った。私は私を取り戻したぞ!」

 

何回でも叫びたいと思いました。

 

 

★1 製薬会社主導の啓発キャンペーンで使われた言葉。

★2 2004年9月に3錠で始まり、2005年2月に2錠に。二度増量があったが、2007年1月に1錠に減っていた。

 

(樋口直美「誤作動する脳――レビー小体病の当事者研究」第29回終了)
 

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