第16回 強制ひきこもりから自主ひきこもりへ――ひきこもるということ(2)

第16回 強制ひきこもりから自主ひきこもりへ――ひきこもるということ(2)

2019.4.03 update.

頭木弘樹(かしらぎ・ひろき)

■文学紹介者。20歳のときに難病(潰瘍性大腸炎)になり、13年間の闘病生活を送る。


■そのときにカフカの言葉が救いとなった経験から、『絶望名人カフカの人生論』(飛鳥新社⇒新潮文庫)を出版。その後、『絶望名人カフカ×希望名人ゲーテ 文豪の名言対決』(飛鳥新社⇒草思社文庫)、『絶望読書』(飛鳥新社⇒河出文庫)、『カフカはなぜ自殺しなかったのか?』(春秋社)、『絶望図書館』(ちくま文庫)、『NHKラジオ深夜便 絶望名言』(飛鳥新社)、『絶望書店 夢をあきらめた9人が出会った物語』(河出書房新社)、『トラウマ文学館』(ちくま文庫)、最新刊は『ミステリー・カット版 カラマーゾフの兄弟』(編訳、春秋社)。


■NHK「ラジオ深夜便」の『絶望名言』(毎月第4月曜日午前4時台)と、『絶望名言ミニ』(毎月第2木曜日午前0時半)のコーナーに出演中。


■詳細はこちらをご覧ください⇒https://ameblo.jp/kafka-kashiragi/entry-12421563677.html


 

|ひきこもりの開始|

 

 漏らすということは、ひとりで部屋にいても、きつい出来事だ。

 しかし、外に出て、社会の中で漏らすと、これは大変なことになる。

 そういう次第で、私は自宅療養中も、ほとんど外出しなかった。

 退院すると、外に自由に出たい気持ちがとても強くなるのだけど、便意に耐え続け、漏らすかもという不安に耐え続けることを考えると、ためらう気持ちが強くなって、「今日はやめておこう」と思ってしまう。そんな日々がずっと続いた。人から病気を移される危険性もあるし、家にひきこもっているほうが無事なのだ。

 

ぼくはひとりで部屋にいなければならない。

床の上に寝ていればベッドから落ちることがないのと同じように、

ひとりでいれば何事も起こらない。

            (カフカ「フェリーツェへの手紙」)

 

 外に出なければ、外で漏らすこともない。

 あたりまえだが、この考えにはまってしまうと、なかなか抜け出せない。

「外に出たって、何か面白いことがあるわけじゃないし」と、酸っぱいブドウの心理も働いてきてしまう。

 家にいるほうが楽しいような気がしてくる。

 

家にひきこもることは、

いちばん面倒がないし、なんの勇気もいらない。

それ以外のことをやろうとすると、

どうしてもおかしなことになってしまうのだ。

               (カフカ「日記」)

 

 でも、漏らしながらでも、外に出ることができたらと、それにもあこがれた。

 土田よしこの『つる姫じゃ~っ!』という少女漫画の「ピクニックにきたけれど…の巻」で、主人公のつる姫は、ピクニックの帰りに下痢になり、

「ええい しかたない いちいち便所をさがしてては 日がくれて キケンだ みちみち たれるか」と、たれ流しながら歩く。

 道はつる姫しか知らないので、みんなはつる姫の後をついていく。

 途中ではぐれて、「まよったかなァ どーしよう」「くらいなってきたーっ」「こわいよー」とみんなで騒いでいるとき、ひとりが「つるっ」とすべる。

「あっ つる姫さんのウンコだ」

「わ── たすかったぞ──っ」

「よかった よかった」

「みんな もうひといきだ ガンバレ これをたどればふもとへつけますよ」

 すると、大量の便がこんもり。

「わっ こんなにたれてるっ」

「オ──ッ 気のゆるんだしょーこだ もうじきふもとだぞっ」

 と、みんな無事に助かります。

 

 これを読んで、とてもあこがれた。

 漏らして歩いても、こんなふうに受け入れてもらえたら、どんなにいいか……。

 当時の少女漫画にあって、土田よしこはよくもまあ、こういう漫画を描いたものだ。

 たんなる下ネタともちがう、なんともいえない魅力があり、ずいぶん励まされた。とにかく、つる姫はしょっちゅう漏らすので。こういう人がいてほしかった。

 しかし、現実にはそうはいかない。

 つる姫のように、漏らしながら社会生活を送ることは、とても無理だった。

 

|部屋の中への適応=外界への不適応|

 

 カフカの『変身』で、虫になった主人公のザムザは、だんだん好みや習性が変化していく。それは虫になったせいもあるけれど、部屋から出られず、ずっとこもっていたせいもあるだろう。

 私もずっとひきこもっていたせいで、ずいぶんといろいろと好みや性質が変化していった。

 感覚も部屋の中に適応していって、その結果として、外に適応できなくなっていった。

 

 萩尾望都に「スロー・ダウン」という短編漫画がある。

 主人公の青年は、感覚遮断実験の被験者になる。何もない部屋に閉じこもって、10日間を過ごす。

 無事に辛抱し通し、実験は終了。

「さあ、TVを見るぞ レコードを聞くぞ! 女の子と会うぞ ディスコに行くぞ! 10日分のしげき! しげきを」

 ところが、外の世界に出ても、それがたしかに現実だという実感を覚えることができない。

「へんだな…… 何もかも… 実感がなくって…… うそみたいだ……」

「確かなものは 何もない 何もないあの部屋とおんなじだ!」

 

 この漫画を読んだときに、とても感動した。

 自分が感じていた戸惑い、外の世界に対して感じるようになっていた不思議な非現実感を、見事にとらえていた。

 人にもすすめてみたが、「そんなに面白いかな?」とか「よくわからない」とか言われた。萩尾望都の中でも、そんなに有名な作品ではないのかもしれない。

 でも、これは凄い。私はものすごく好きだ。

 

|風景が後ろに動いて行く|

 

 長期間ひきこもっていた人なら、たぶん、「そうそう」と共感してもらえると思うけど、久しぶりに外に出ると、いろんなことに驚く。

 

 まず、頭の上に空があることに驚く。

 そんなことはあたりまえで、部屋の中からだって空はいくらでも見ているわけだが、やはり外に出て見る空はちがう。

 なにしろ、自分の頭の真上にある。自分の頭の真上に、何もなくて、あるのは、はるかに高い空なのだ。空だって、空に見えているだけで、空気の層にすぎない。自分の頭の上に何もないのだ。どこまでもどこまでも、何もないのだ。

 これはずいぶん怖ろしいことだし、気が遠くなる。

 

 そして、何より驚くのは、自分が歩くと、風景が後ろに動いていくことだ。

 これもあたりまえだ。自分が前に歩いているのだから、周囲の風景は、それは後ろに動いていく。当然のことだ。

 だけど、びっくりしてしまう。おおっ! となってしまう。

 まるで3Dアトラクションのようだ。

 

 そして、いろんなにおいがする。外の世界というのは、じつにいろんなにおいがする。

 そして、いろんな音がする。360度から音が聞こえてきて、サラウンドだ。

 現代音楽に、自然音を構成して音楽にした「ミュージック・コンクレート」というジャンルがあるが、まるでそれを聴いているようだ。

 

|赤ちゃんのような足の裏|

 

 そして、駅までの10分くらいを歩くだけでも、もうふくらはぎとかの筋肉が、筋肉痛になってくる。

 足というのは、歩いていないと、本当に早く弱る。これほど早く弱る必要が、どこにあるのかと不思議になるほどだ。

 

 1週間寝たままの状態を続けると、10~15%程度の筋力低下が起きるらしい。

 ひきこもりには、この筋肉低下は大きな問題だ。

 

 足の裏は、歩いていないから、どんどんきれいになる。角質化しているところなんかなくなって、赤ちゃんの足の裏のように、赤くてやわらかくて、すべすべになる。足モデルがやれそうな気がするくらいだ。

 靴をはかないから、水虫などにもまったく縁がない。

 

 長く入院していた歌人の中城ふみ子に、こういう短歌がある。

 

乾きゆく足裏やさし一匹の蟻すらかつて踏まざる如く

 

 これはずっとベッドの上にいて、歩かなくなった足の裏が、何も踏んだことがないかのようになってきた、という意味ではないだろうか(短歌は難しくてよくわからないので、私の誤読かもしれないが)。

 

 このように、精神的にも肉体的にも、ひきこもっていると、さまざまな変化が起きてくる。

 

|最初は憎み、しだいに慣れ──|

 

 私はその後、手術を受けて、漏らす心配はまったくなくなった。

 プレドニンの使用量もかなり少なく、人に病気を移される心配もかなり低くなった。

 だから、もう自由に外に出ることができるはずなのだ。

 留めるものはないし、ためらう必要もない。

 扉は開かれた。

 

 だが、なかなか外に出ることができなかった。

 なんとなく家にいたくなるのだ。

 せっかく扉が開かれたのに、出ようとしないのだ。

 

 これは明らかに、病人生活によって、性質が変化してしまったせいで、とても不愉快なことだ。

 できるだけ、病気になる前の自分に戻りたいと思っている。

 それなのに、なかなか戻れない。

 もはや、「家にいるのが好き」というのが、本心であるかのように、内側からわきあがってきて、自分をとらえている。

 理性では、それが本心ではないとわかっているのに、なかなか自分自身を説得できない。

 

 現在の私は、ようやくひきこもりではなくなってきた。

 それでも、すっかりインドア派だし、どこかに、ひきこもりな性質が残っている。

 まだ完全には元に戻れていない。戻れるかどうか……。

 

 作家のナサニエル・ホーソンは、12年間、ひきこもり生活をしていたらしい。

 私は13年間。同じくらいだ。

 そして、ホーソンもやっぱり、外に出るのが怖いと言っている。

 これは、長期間ひきこもった人には、おそらく共通する心理なのだろう。

 

 今、世の中には、中高年のひきこもりの人がたくさんいるという。

 その多くは、若い頃から長期間ひきこもっていた人たちだ。

 そういう人たちが、外に出られるようになるために、まずはひきこもりの原因を解決することが、もちろん必要だろう。

 そして、外に出て生活できるような、支援体制を作ることも必要だろう。

 しかし、それらを万全に行なったとしても、多くのひきこもりは、出てこようとしないだろう。

 

 そこまで頑張って支援した人たちは、そのとき、腹が立つかもしれない。

 牢獄の鍵を叩き壊して、扉を開放してあげて、さらに外に居場所まで作ってあげたのだ。それなのに、出てこないとは何事か。

 怒るとしても、無理はない。

 

 しかし、出ていきたくても、出ていけないのだ。その理由は、当人たちにもうまく説明できないだろう。

 

 映画「ショーシャンクの空に」の中に、長く刑務所にいた囚人が、釈放されて自由になったのに、外の世界になじめず、「不安から解放されたい」と自殺する、というエピソードがある。

 別の囚人が、刑務所の塀を指さして、こう言う。

「あの塀を見ろよ。最初は憎み、しだいに慣れ──長い月日の間に頼るようになる」

 

 病気にならなければ、そして病気のせいでひきこもることにならなければ、今の自分がいったいどんなふうに、自由に外の世界を楽しんでいたのか、それはもう想像するのも難しい。

 

(頭木弘樹『食べることと出すこと』第16回了)

 

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