第15回 もし、漏らしたら――ひきこもるということ(1)

第15回 もし、漏らしたら――ひきこもるということ(1)

2019.4.03 update.

頭木弘樹(かしらぎ・ひろき)

文学紹介者。20歳のときに難病(潰瘍性大腸炎)になり、13年間の闘病生活を送る。


そのときにカフカの言葉が救いとなった経験から、『絶望名人カフカの人生論』(飛鳥新社⇒新潮文庫)を出版。その後、『絶望名人カフカ×希望名人ゲーテ 文豪の名言対決』(飛鳥新社⇒草思社文庫)、『絶望読書』(飛鳥新社⇒河出文庫)、『カフカはなぜ自殺しなかったのか?』(春秋社)、『絶望図書館』(ちくま文庫)、『NHKラジオ深夜便 絶望名言』(飛鳥新社)、『絶望書店 夢をあきらめた9人が出会った物語』(河出書房新社)、『トラウマ文学館』(ちくま文庫)、最新刊は『ミステリー・カット版 カラマーゾフの兄弟』(編訳、春秋社)。


NHK「ラジオ深夜便」の『絶望名言』(毎月第4月曜日午前4時台)と、『絶望名言ミニ』(毎月第2木曜日午前0時半)のコーナーに出演中。


*詳細はこちらをご覧ください⇒https://ameblo.jp/kafka-kashiragi/entry-12421563677.html


 

  私はひきこもっています。

  そうしようと思ったわけではなく、

  そんなことになろうとは思ってもみなかったのに。

  ……ドアに鍵がかかっているわけではないし、

  いつでも開けて出られるのに、

  いまでは外に出るのがほとんど怖ろしいほどです。

       (ナサニエル・ホーソン「ロングフェローへの手紙」)

 

 

ひきこもりは、原因が解消されても、つづく……|

 

 ひきこもることの怖ろしさは、ひきこもる理由がもしなくなったとしても、もはや容易には外に出ていけないということだ。

 原因があって、ひきこもった場合、その原因をなくしてあげれば、その人はまた外に出られると思われがちだが、そうはいかない。

 ひきこもっていた期間が長くなればなるほど、外に出るということは、とても困難になる。

 その困難は、当人にとっても不可解なものだ。

 

 私は、好きでひきこもっていたわけではない。病気で仕方なくひきこもっていた。だから、外に出たくて仕方なかった。

 もともとは、外に出るのが好きなほうだった。インドア派ではなかった。

 もし外に出られるようになったら、高い山にも登ろう、深い海にも潜ろうと思っていた。世界中のいろんなところに行ってみたかった。そんな夢をよく思い描いた。

 

 ところが、手術をして、かなり普通の生活を送れるようになり、外にも出られるようになったとき、私は自分が、もはや外に出ることを怖れるようになっていることに気づいた。

 ひきこもっていることに、うんざりしていたので、喜んで外に飛び出すとばかり思っていた。それこそ、雨の日が続いてなかなか散歩に出られなかった犬が、久々の晴れの日に日射しの中に飛び出して、ワンワン鳴きながら嬉しそうに跳ね回るように。

 

 ところが私という犬は、扉が開かれても、うずくまったまま、外に出ようとしなかったのだ。日射しをまぶしそうにながめるだけで、むしろ室内の薄暗いところにあとずさりしてしまう。

 驚いたし、なんてなさけないと思った。

 私は、私という犬の主人でもあったわけだが、かたくなな犬を、主人でさえ、どうすることもできなかった。リードを強く引っぱってみても、てこでも動かないのだ。

 途方にくれた主人と犬は、室内にとどまって、開いたドアから外をながめていた。ただずっとそのまま……。

 

|外に出ると鬼がいる|

 

 私は13年間、入退院をくり返していたのだが、3~4か月くらい入院して、1~2か月くらい自宅療養するということが多かった。それぞれの期間は、その時々で長短があったが。

 なので、自宅にいた期間もけっこうある。その間、外出を禁じられていたときもあったが、外出してもいいときもあった。

 しかし、ほとんど外には出られなかった。

 それには、大きくは2つの理由がある。

 

 ひとつは、プレドニンという薬のため。

 難病の治療のために、ほとんどの期間、これを使い続けていた。再燃するとこの薬を増やし、だんだん減らし、なるべく少ない量の期間を長く保つように努力する、ということのくり返しだった。

 このプレドニンという薬は、免疫を抑制する作用がある。つまり、他の病気にかかりやすくなる。なので、量が多いときは、入院して、抗生剤を同時に投与される。

 ある程度までプレドニンの量が少なくなると、退院するが、それでも「まだかなり量が多いので、なるべく外に出ないように」と医師から言われる。

 そこからさらに減らしていくことに成功すると、もう外に出てもかまいませんが、なるべく人混みは避けるように」と、医師からお許しが出る。

 

 とはいえ、これが本当に人の病気をもらいやすい。

 電車とかで隣の席の人がゴホンというだけで、もうカゼをもらってしまう。

 カゼをひいてしまうと、カゼだけではすまなくて、難病のほうに影響が出てしまう。そうすると、またプレドニンの増量だ。下手をすると、入院になる。

 これでは、怖くて、なかなか外出ができない。

 

 それでも、通院だけはどうしてもしなければならないが、病院でもずいぶん人から病気をもらってしまった。そのせいで、他の病気で入院したこともある。

 自分の病気は、どんなことをしても決して人には移らない。なのに、人の病気は、自分に移る。

 一方的に被害のみを受けてしまう。

「一病息災」などと言うが、一病のせいで多病になってしまった。

 

「外に出ると病気を移される」というのは、かつて親が子どもに「勝手にお外に出ると、怖い鬼が出ますよ」などと脅かしていたようなもので、じつに効果があった。

 なにしろ、外に出ると、カゼやインフルエンザなどにかかっているにもかかわらず、「仕事があるから」などと電車に乗っている人がたくさんいる。しかも、マクスもせずに、セキをまきちらしている人の多いこと。

 私はそういう鬼たちが怖くて、すっかり外に出なくなった。

 

らすという恐怖|

 

 もうひとつの理由は、漏らしてしまうかもしれないということだ。

 メインはこちらだったかもしれない。

 人から病気を移されるのが怖いだけなら、厳重にマスクをした上で、あまり人のいない時間帯に公園に行くとか、空いている時間に本屋さんとかコンビニとかに行くとか、少しは外出を楽しめるはずだ。

 その程度の外出だって、ずっと病院のベッドにいた人間にとっては、楽しくて仕方ない、日常生活の大冒険だ。刑務所に入っている人間にとっては、中庭での散歩ですら、楽しみになるように。

 

 しかし、自分が住んでいる部屋を出るのさえ、そうとうな勇気がいる。

 まず、布団に寝ている状態から、立ち上がるだけで、便意が高まる。そこでもう無理ということもある。

 

 外出のために、服を着替えている最中に、さらに便意が高まる。これは、「これから外に出るぞ」という緊張で、なおさら高まるのかもしれない。

 トイレに行きたくなると大変と思うと、ますますトイレに行きたくなるものだ。人の心はどうしてそうなっているのか、本当に困る。

 

 そして、いよいよ外に出ようとすると、玄関のところで、さらに便意が高まる。玄関のドアノブの冷たいのを握って、ぐっと開くときなど、とくに危ない。

 外からぶわっと空気が入ってきて、外のにおいがする。いよいよ、外だ。漏らしてしまったら、大変なことになる。まだ自分だけで始末できる家の中とはちがう。と、そこまで考えるわけではないけど、緊張が一気に高まる。

 

 ドアの外に出て、鍵を締めるときには、手が震えることもある。これは緊張で震えるのではなく、下痢などを我慢しているときには、普通の人でも経験があるはずだ。そういうときには、鍵を鍵穴に入れるといような、細かい作業は、とてもやりにくいものだ。

 この震える手を見ることによって、さらに緊張が高まる。

 

 エレベーターの中というのが、また危ない。

 ここで漏らすと、住民全体に大迷惑をかけることになる。そう思うと、ドキドキしてくる。

 下界に降りて行く、最後の決断の場という感じも、精神的によくない。

 

 それで、とうとう外に出る。

 そうすると、意外に大丈夫なこともある。

 だが、最初から、便意がおしりをつんつん突いてきて、危なかしくて仕方ないこともある。

 なにしろ、下痢状態なのだから、油断がならない。

 

 道を歩いていて、向こうから誰かやってくるとき、「今、ここで漏らしたら、あのおばさんは、さぞびっくりするだろうなあ」などと思うと、よくない。

 なるべく便意のことを忘れるようにしなければいけない。

 だが、忘れることはもちろんできない。

 

 よく「書店に行くとトイレに行きたくなる」などと言うが、これは本当だ。

 私の場合も、書店はとくに危険だった。入院経験によって、本を読むようになっていたから、書店に買いに行きたいのだが、書棚の前に立つと、たちまち便意が高まってきて、とても危険な状態になる。

 

|人間は動物なのだ|

 

「家を出る前によくトイレに行っておけばいいじゃないか」と思う人もいるかもしれない。

 しかし、トイレに行く回数は、なるべく少なくしたほうがいいのだ。これは医師から言われていたわけではないが、経験的にそうだった。何度もトイレに行くと、それで荒れてしまうのか、具合がよくなくなる。トイレに行く回数はなるべく少なくしたほうが、調子がよかった。

 なので、外に行くために、トイレの回数を増やすというようなことはできなかった。

 それに、下痢というのは、1回トイレに行っておけば、それで大丈夫というものではない。

 

「外でトイレに行きたくなったら、そのとき行けばいいではないか」と思う人もいるかもしれない。

 たしかに、書店などにはトイレがあるから、そこで行けばいいわけだ。

 だが、トイレの回数は増やしたくない。

 それに、トイレに行こうとすることは、けっこうリスキーなのだ。これは普通の人も経験があると思うが、もうトイレで出せると思って気がゆるんだ瞬間が、いちばん危ない。

 トイレに入って、大のほうのドアを開けて中に入ろうとする瞬間などが、いちばん漏らす危険性がある。

 それでも、すんなり入れればまだいいが、すべて人が入っていて、待たなければならないとなると、これは本当にきつい。「もうダメだ、トイレに行こう」と観念してしまっている状態だから、そこでさらに「待て」となると、しつけの悪い犬ではないが、もう待てない。声をあげて、身もだえてしまいそうなほど、苦しい。

 

「そうです。わたしも今、小便を堪えております。何が文明か。人間は動物なのだ。小便本能だけで気が狂う単細胞動物なのだ。思い知れ」彼は両手で自分の頬を引っ掻(か)き、胸を激しく叩(たた)き、腰を激しく前後に揺すりはじめた。

       (筒井康隆「公衆排尿協会」『夢の検問官・魚藍観音記』)

 

 尿意や便意を我慢するというのは、ギャグとしてよくある。はた目には、身をよじって尿意や便意を我慢している姿は、笑わずにいるのは難しい。

 しかしまあ、当人にとっては、脂汗を流しながら、自分の生理的な感覚と闘っているのである。

 この筒井康隆の小説の「何が文明か。人間は動物なのだ。小便本能だけで気が狂う単細胞動物なのだ」という一節には、大いに感動した。

 

|下半身の無防備さ|

 

 普通に下着とズボンだけでは、あまりにも無防備な感じがして、怖かった。

 ほんの少し漏らしただけでも、お尻のところがシミになってしまい、大変なことになる。

 人間は、おしっこや便をもらしてしまうかもしれない存在なのに、どうして下半身をおおう下着やズボンがこんなにも薄いんだ! と憤(いきどお)りさえ感じた。

 健康なときには、そんなこと思ってもみなかったわけだけど。

 

 よくまあ、みんな、こんな無防備な状態で歩けるものだと、まるで初めてスカートをはいたかのような感想を、普通の男性の服に対して抱いてしまった。

 みんな、ちゃんと排泄のコントロールができているのである。私はそのコントロールを失ってしまったのだなあと、あらためてしみじみ思った。

 とにかく、外で事件を起こしてしまうと、心がずたずたになってしまう危険性があったので、それだけは避けたかった。

 

 病院では成人用のオムツを使ったりしていたわけだが、それを使うことは思いつかなかった。なぜなのかよく覚えていないが、たぶん、その頃はまだ、今ほど薄くなく、かなりかさばるものだったのだと思う。おしりが異様にもこもこしていては、それはそれでおかしい。とくにその頃の私は、針金のように痩せていたから。

 

 生理用品を使うといいと教えてくれたのは、医師だった。言われたときは、なんて心ないことを言うんだと思った。男性なのに、女性の生理用品をつけて外を歩くなんて、そんな変態のようなことを勧められるとは、ますますみじめになっていくような気がした。

 しかし、テレビとかを見ていると、生理用品のCMが流れる。「多い日も安心」とか「吸収率アップ」とか言っている。「そうなのか……」と気になったりする。それから、ふと我に返り、生理用品の性能について気になってしまっている自分がなさけなくなる。

 

 などという、くだらない葛藤を経た後、ついに生理用品を試してみた。

 大変な違和感だった。

 女性は毎月、何日も使用するわけで、もっと気にならないように進歩していると思っていた。

 男性と女性では身体のつくりがちがうせいかもしれないが、お尻の違和感は、つけていることを忘れられるようなものではぜんぜんなかった。

 

 女性は大変だなあと、しみじみ思った。

 だいたい、女性の場合、毎月、出血があるわけだ。それは病気ではなく、正常なことだから、もちろん、こっちが出血するのとはぜんぜんちがう。しかし、定期的に血を見るわけだし、しかも生理用品を使わなければならない。

 生理用品のCMで「漏れない」ということを宣伝文句にしているということは、漏れる不安を感じているということだ。お尻のところに血のシミができれば、たとえ正常なことでも、恥ずかしいだろう。そんな状態を何十年も続けるというのは、大変なことだ。

 勝手な思い込みかもしれないが、このときから女性への尊敬がぐっと高まった。

 

|生理用品をつけて外へ|

 

 そういうわけで、恥ずかしながら、生理用品をつけて外出していたことがある。

 そして、生理用品に助けられたこともある。

 今でも覚えているのは、ある大きなビルのオフィスに訪ねて行かなければならなくなったときのことだ。

 途中で便意を我慢できなくなった。これは大変なことになると思い、もう仕方なく、近くのぜんぜん知らないオフィスに入って、男女兼用のトイレに入った。幸い、誰にも気づかれなかった。

 

 生理用品に少しだけ漏らしてしまっていた。ショックだった。けれど一方で、生理用品を使っていてよかった、恥ずかしい思いをしたかいがあった、という喜びも感じた。

 ところが、すぐにドアをがちゃがちゃと回され、

「あれーっ? 誰も入ってないはずだよね?」

「えっ、誰か入っているの! なんで?」

 と、2人の女性社員らしき声がする。その職場の人が誰も入っていないのに、トイレに誰か入っているんだから、それは不審だろう。

 鍵がかけてあるとはいえ、外でそんな不審そうな声を出され、さらに人も集まってきた。

「いやだ、気持ち悪い」

 などという声もする。変態でも入っているのではないかと、不安がっている。

 中では、生理用品を手にした男が、ズボンとパンツをおろしているのである。まさに変態にしか見えない。なんだか現実ではない気がするほど、青ざめた。

 

 この後、どうなったのか、じつはよく覚えていない。

 なんとか身なりの整え、笑顔を作ってから、ドアをさっと開けて、出ていった。そこまでは、たしかだ。

 その後が、あいまいだ。

 あっと女性社員数人が後ずさったが、幸い私はスーツを着ていて、怪しい感じではなかったし、「すみません、ちょっとお腹をこわしてしまって……」と笑いながら頭を下げたら、むこうも変質者ではなさそうと安心したのか、こわばっていた顔がほどけて笑ってくれて、事なきを得た。

 ──という記憶もあるのだが、これは自分の心を守るために、後で私が作り上げたもののような気もする。

 もしかすると、そんな贋記憶に頼らなければならないほど、心が傷つくことがあったのかもしれない。

 とにかく、警察や警備員を呼ばれたりということはなかったと思う。

 

 こんな出来事、わざわざ書くほどのことでもないのだが、なぜかかなり強く印象に残っている。私にとっては、手に汗握る状況だった。もっと大きな大切なことで心を動かしている人もいるというのに、私の精神を揺さぶるのは、こんな排泄のことなのだった。

 

(頭木弘樹『食べることと出すこと』第15回了)

 

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