第24回 目は脳の窓

第24回 目は脳の窓

2018.12.26 update.

樋口直美(ひぐち・なおみ) イメージ

樋口直美(ひぐち・なおみ)

1962年生まれ。50歳でレビー小体型認知症と診断された。
2015年に上梓した『私の脳で起こったこと――レビー小体型認知症からの復活』が、日本医学ジャーナリスト協会賞を受賞。
思考力自体には問題はないが、空間認知などさまざまな脳機能障害のほか、幻視、自律神経障害などがある。
自分で手作りした下記サイトには講演動画や原稿や記事を集めてありますので、どうぞ。
https://peraichi.com/landing_pages/view/naomi
また本連載の目次サイトはこちら⇒https://peraichi.com/landing_pages/view/gosadou

 

■子どもの顔が……

 

30歳のころ、忘れられない出来事がありました。幼児だった私の子どもに高熱が続いた朝、熱性けいれんが起こりました。それまでは起こっても1分程度で止まっていたのですが、そのときは長いあいだ収まらず、けいれんが止まった後はピクリとも動きませんでした。「呼吸をしていない!」と夫が言い、私が救急車を呼びました。

 

ずっと意識を失っていた子どもが救急車の中で目を覚ましたとき、親の顔も呼びかける言葉もわからない様子でした。ウーウーとうなり声をあげながら夫の腕から必死で逃げようとします。

 

そのとき子どもは、重い知的障害のある子と同じ顔をしていました。目つきとかではなく、顔全体がすっかり別人になっていたのです。救急隊員たちに何を質問しても皆、黙ってうつむくので、酸欠によって治ることのないダメージを脳に負ったのだと私は思いました。

 

子どもはまた意識を失いましたが、次に病院で目覚めたときは、元通りの顔で「ここ、どこ?」と言いました。「○〇(子ども自身の名前)、怖かったよ。〇〇、お母さ〜ん、お母さ〜んって、ずっと呼んでたんだよ」と言いました。

 

それは私にとって忘れることのできない出来事ですが、そのとき初めて、人間の顔の形は固定したものではなく、脳の状態によってすっかり変わってしまうことを知りました。

 

脳の状態が目に表れる

 

私は、自分の病気を「脳の状態が変動する病」だと実感しています。疲れやストレスや気候(温度や気圧の急激な変化)が主な引き金になりますが、何でもないときに急に起こることもあります。昼寝をしている最中に起こり、苦しくて目覚めることもあります。

 

このとき鏡を見ると、顔が変わっています。「今は脳がまったくダメだ」と思うときは、目が小さくなって生気がありません。「腐った魚のような目」という表現がありますが、まさにどんよりと曇った光のない目をしています。鏡を見ながら「あぁ、(重度の)認知症の人の顔だ」と思ったこともありました。

 

実家にいるときに「顔がみるみる変わっていくのがわかる」と言われたことがあります。どんな顔だったのかと後で聞くと、「人の話をわかっているのかどうか、わからないような惚けた顔」と言われました。そのとき、周囲で交わされていた会話はすべて聞こえていたのです。ただ、急に起こった強い倦怠感と頭の違和感のために考えることもつらく、ただ横になりたいと思い、自分から会話に加わるのは無理だと感じていました。

 

カメラを止めて!

 

私には、幻視・錯視以外にも目の問題がさまざまあります。暗いところではものが見えにくい、青い色が見えにくい、光が眩しいことは、すでに書きました第10回 夜目遠目も脳の内)。

 

滅多にはないのですが、視覚情報の処理に脳が失敗していると自覚するときがあります。たとえば、外に散歩に出たとき、世界がユサユサと上下に大きく揺れたことがあります。驚いて立ち止まると揺れも止まるので、めまいでも地震でもないとわかります。少し歩くと揺れはなくなるのですが、最初に起こったときは、びっくりしました。脳にはカメラと同じ手ぶれ修正機能があり、それが急に作動しない状態になったのではないかと想像しました。

 

夫に誘われて、映画『カメラを止めるな!』を観に行ったときは、冒頭のハンディカメラ撮影の疾走シーンで、私も席を立って洗面所に駆け出しました。手ぶれが続く映像に酔ったのです。胃が空になっても吐き気は止まらず、長時間うずくまってゼイゼイしていました。帰宅してそのまま寝込み、気持ち悪さは翌日まで続きました。もともと船酔いをしやすい体質ですが、ここまで重症になったのは初めてです。体質と、レビー小体病による自律神経障害に加えて、脳の視覚情報処理の問題なのだろうと思いました。

 

世界がバッサリ断ち切られる体験

 

見慣れない階段で、急に動けなくなったことも何度かあります。古い日本家屋の幅が狭く傾斜が急な階段や、ケーブルカーから降りたときの変則的な幅と形の階段でした。

 

以前、自宅の居間の壁が半球状に盛り上がる錯視を見たことがあるのですが、そんなふうに階段が変形していたわけでも、動いて見えたわけでもありません。そのままの形で目には映っています。ただ、自分が見ている世界に対して激しい違和感を抱きました。目の前の世界と自分とのつながりが、バッサリと断ち切られているように感じたのです。誰かが、今、ここにある景色から私だけを抜き取って、異質な空間にポンと置いたような……。自分がたしかにそこに立っているのかどうかがよくわからないような、得体の知れない不安定さの中にいました。

 

階段は見えているのに、自分の身体がどこか違うところにあるようで、その身体をどうしたら階段に向かって動かせるのかがわかりません。一歩を踏み出そうと思っても、わけのわからない怖さや不安ばかりが高まるのです。「体が言うことを聞かない……」。焦りました。めまいはしませんが、頭もクラクラしてきました。「助けて!」と声を出そうとしたとき、ふっと異変は消え、その後は、問題なく階段を降りていけました。

 

これは、目から入った3次元の視覚情報を、脳が突然処理できなくなったのではないかと後から思いました。目と脳と体をつなぐ回線に問題が起きて、接続がうまくいかず、情報の流れが滞った状態だったのではないかと。昔よくあった接触の悪い電気製品のように、一度止まっても何かの拍子ですぐ電気が流れ、あとは何事もなかったかのように動くのです。

 

脳は働き者、だけどだまされやすい

 

目の前のコップを持ち上げる、水たまりを飛び越す、紙くずをゴミ箱に投げ入れる……。そのとき脳は、目から取り込んだ画像から一瞬にしてその距離、高さ、幅、深さなど、たくさんの位置情報を瞬時に測定し、正確な順番とタイミングと強度で筋肉を次々と動かしているのだと初めて気づきました。そんな複雑で高度なことを無意識に、瞬時に、常に行い続けているわけです。

 

そう思うと、脳はスーパーマンみたいだなと、尊敬と感謝の気持ちが湧くのですが、そのくせひどく単純なところがあり、だまされやすいという人間味もあります。誰でもちょっとした脳の混乱を感じるのは、不具合で止まっているエスカレーターの上を歩くときです。脳は「動いているエスカレーター用の計算式」を使って筋肉に命令を送るので、停止したエスカレーターとは合わず、肩透かしを食らったような戸惑いを一瞬感じます。

 

石そっくりの発泡スチロール製の置き物を石だと信じて持ち上げたことがありますが、あまりにも脳がびっくりしたので、そのことのほうが面白いと感じました。脳は、見るだけで重さまで測って手の筋肉を動かしているようなのです。

 

もっと強い混乱を誰でも経験できる道具も世の中にはあります。上下左右が逆になる特殊な実験用メガネ。私は30代のころにこれを着けたことがありますが、とても怖くて、ヨチヨチ歩きしかできませんでした。紙と鉛筆を渡されて「字を書いてください」と言われましたが、紙の上に現れる線を見ていると、字が書けなくなります。

 

漢字を書こうと縦に1本線を引くと、鉛筆は下から上に動いて、線は上に向かって引かれます。横棒を引けば、右から左に線が伸びるのです。自分の動作と目に見える動きが食い違っていると脳は完全に混乱します。自分の手が人の手にすり替わったように感じて、自分の手を自分で思うように動かすことができないのです。結局どれだけ頑張っても字の形にはならず、「ああ、もう無理だ」と思うと、手は動かなくなりました。

 

しかし目をつぶると、下手とはいえスルスルと字は書けるのです。脳は、こんなにもあっさりと見ているものにだまされて、動きすら封じられてしまうのだと、そのとき知りました。

 

一方で「慣れ」という要素も

 

驚いたことに、このメガネを毎日かけつづけていると徐々に慣れて、やがて問題なく生活できるようになるそうです。しかし慣れたところでメガネを外すと、またかけ始めと同様に新たな混乱と苦闘の日々が始まるというのです。脳は、一度にたった1つの見え方しか選べないようです。

 

生活のなかで目に頼っている比率がかなり大きい私たちは、夜、停電になっただけで手も足も出なくなりますが、目の見えない人は困りません。彼らは音や空気の流れなど別の感覚を使って豊かに世界を知覚しています。でも私たちは自分の認識の仕方以外を知らないので、そうでない世界を想像することができません。

 

「鳥のように飛べないなんて不便だ」とか、「魚のように水中に留まることができないなんて惨めだ」とは思わないのに、自分が生まれつき持っている能力を持っていない人を目にしたり、その人の生活を想像すると、「どれほど不便だろう……」と、つい思ってしまうのはふしぎなことです。自分の身体のありように制限されて、その身体が認識する範囲でしか世界を認識できないことのほうが不自由です。

 

車いす体験をした子どもたちが、「こんなに大変なんだって、よくわかりました」と言うのを聞いて、「いや。そんなに大変じゃないよ、と思う」と車いすユーザーの熊谷晋一郎さん★1が話されて、一緒に笑ったことがあります。

 

私がシナリオを書いた「VR認知症 レビー小体病幻視編」(シルバーウッド製作)の体験直後も「こんなに怖いんですね!」という第一声が大半です。「そんなにずっと怖いわけじゃなく、だんだん慣れます。本人も家族も幻視を異常視することをやめれば、幻視と穏やかに共存できます」と話す私の映像も加えた体験プログラムに現在はなっています。

 

VR認知症のシリーズの中に「私をどうするのですか?」という作品があり、体験者は高いビルの際に立たされます。体験中の人をじっと見ていると、本当に全身をグラグラさせながら手でバランスをとっている人もいれば、平気でまっすぐ突っ立って体験している人もいます。同じVR映像を見ているのに、一人ひとりの身体の反応が全然違うのです。

 

私はといえば、この作品を体験中にバランスを崩して転ぶという失態。下河原忠道さん(このプロジェクトの創始者)からは、「1000人以上が体験してきたけど、転んだのは樋口さんが初めてだよ」と言われました(2018年12月には体験者が3万人を超えたそうです)。1000人に1人ということは、視覚情報処理がどこか障害されている影響なのかなと思いました。

 

救いの言葉

 

目とは、不思議な臓器です。心を惹きつけるものがあると、子どもでも老人でも目がキラキラッと実際に輝いて見えますが、あれは目の中で何が起こっているのでしょうか?

 

また、それが笑顔でなくても、光り輝いた目を見るとグッと惹きつけられ、見ているだけのこちらまで気持ちが高まっていくように感じます。逆にどんよりとした目を見ただけで気持ちが淀みそうになり、思わず遠ざかりたくなります。「精神状態」と呼ばれる脳の状態が目の光り方に現れ、さらに伝染するかのように他人の脳に作用して同期させるなんて、本当にふしぎな現象だと思います。

 

心に希望が溢れると世界は美しく光り輝いて見え、絶望に覆われていると美しい花すら美しいとは感じなくなる。そんなことを経験すると、脳は、世界をありのままには認識していないこともわかります。「私たちは、目の前にある同じ世界を見ている」というのは、ただの錯覚で、世界は脳の数だけ存在しているのでしょう。そしてその世界は、自分のなかでも大きく変化していきます。

 

自分の病気がレビー小体型認知症だろうと気づき、未来から希望が完全に消えたと思い込んでいたころは、海を見れば、沈んでいく自分を想像し、走っている車を見れば、ここに突っ込んで来てくれないだろうかと毎日考えていました。そこから脱することができたのは家族の存在があったからですが、私は苦しいとき、本のなかの言葉にいつも力をもらいます。

 

「我々の人生そのものが、宇宙によって見られている夢にほかならない」

哲学者の池田晶子のこの言葉★2は、そのときの私の大きな慰めになりました。自分ではどうにもならない状況になってしまったけれども、宇宙が見ている夢であるなら、そういうこともあるだろう。1つのいのちは、儚(はかな)く短いけれども、その1つをこんな私でも宇宙からもらえたということか……。それなら、それは私が思うよりも大切なのかもしれない。宇宙の見る夢に、成功も失敗もないだろう。人の目にどんなふうに映ろうと、宇宙から見れば取るに足らないことだろう。

 

凍てついた夜空を見上げれば、小さな星が静かに瞬いています。その光は美しく澄み切っていて、あのときも今も、私を慰め勇気づけてくれるのです。

 

★1 熊谷晋一郎さんは東京大学先端科学技術研究センター准教授(小児科医)。脳性まひで車いすユーザー。代表作に『リハビリの夜』医学書院、2009年がある。

★2 池田晶子『残酷人生論』毎日新聞社、2010年、84頁。

(樋口直美「誤作動する脳――レビー小体病の当事者研究」第24回終了)

 

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