第21回 なぜできないのかわからない

第21回 なぜできないのかわからない

2018.9.26 update.

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樋口直美(ひぐち・なおみ)

1962年生まれ。50歳でレビー小体型認知症と診断された。
2015年に上梓した『私の脳で起こったこと――レビー小体型認知症からの復活』が、日本医学ジャーナリスト協会賞を受賞。
思考力自体には問題はないが、空間認知などさまざまな脳機能障害のほか、幻視、自律神経障害などがある。
自分で手作りした下記サイトには講演動画や原稿や記事を集めてありますので、どうぞ。
https://peraichi.com/landing_pages/view/naomi
また本連載の目次サイトはこちら⇒https://peraichi.com/landing_pages/view/gosadou

 

職場での失敗の数々

 

2012年にレビー小体型認知症を疑って都内の大きな病院を受診したころは、重い内蔵の病気があるような体調不良と失敗の毎日でした。特にパートで働いていた職場での失敗からは、リングの上で打たれ続けるようなダメージを受けていました。

 

職場でいちばん困ったのは、ある作業の途中で、別の用を頼まれていったん中断すると、途中だった作業のことが意識から抜け落ちてしまうことでした。仕事をやりかけのまま放置する、という失敗を繰り返しました。

 

大金を預かった直後に、別の人から急用を頼まれ、「すぐに戻るから」と鍵もない引き出しにいったんお金を入れました。その後、お金のことは完全に忘れてそのまま帰宅し、上司から自宅に電話が掛かってきました。

 

「どういうことだ?」と詰問されれば、放置したことは即座に思い出します。でも「なぜだ?」と問われても、自分でもなぜそんなことが起こるのかまったくわからず、謝罪以外の言葉は浮かびません。

 

間もなくまた大きなミスをし、上司から「どうしてこんなことをしたのか説明しなさい」と問い詰められました。何をどう説明すればいいのかわからず、「覚えていません」と事実のままに答えると、「覚えてないわけがないだろう!」と怒鳴られました。

 

その瞬間、当時頻繁に起こしていた発作のような体調不良が起こり、頭がもうろうとするのを感じました。真面目に仕事をしていれば、こんな間違いを何度もするはずがないということを強い口調で言われていましたが、もう立っているだけで精一杯でした。

 

話を聞いていた最年長の同僚は、「まだ若いのに、何言ってるの?」と不快感を示しました。「顔色が悪いよ。どこか悪んじゃないの?」と心配してくれる同僚たちもいましたが、彼女たちにも連日迷惑をかけていることが心苦しく、かといって「幻視があり、認知症の疑いで病院に行った」とも言えず、返す言葉がありませんでした。

 

脳もタイムカードも空洞だらけ……

 

二度とミスをしないようにと常に緊張している日々が続きました。しかし全力で頑張れば頑張るほど、状況も体調も悪くなっていきました。毎日自宅に帰り着くとそのまま居間に倒れ込み、気絶したように眠り込んだり、「困った。もう動けない。夕食がつくれない」と思いながら1時間くらい石のように転がっていました。

 

後で考えれば、これは脳の病気からくる異常な疲労感であり、危険な状態だったとわかるのですが、そのときは、とにかく目の前にある仕事と家事をすることだけに力を使い果たし、対策を考える余裕も能力も失っていました。全力でもがきながら深く暗い水底に沈んでいくような日々でした。

 

ある日、「樋口さん、ちょっと」と呼び出され、タイムカードの押し忘れの多さを注意されました。もう何度も言われていたのですが、毎回言われるまでは自覚がありません。そのとき目の前に突き出された自分のタイムカードには、押し忘れた空白がどこまでも広がっていました。

「まるで空洞の広がった脳の画像みたいだな。私の脳は、もうダメかもしれないな……」とぼんやり考えていました。

 

人間は、ダメだと思った途端にダメになるのかもしれません。間もなく毎日使っている内線番号が突然思い出せなくなり、忘れるはずのない単純な仕事の手順が突然わからなくなり、同僚を呼ぼうとしたら名前が出てきませんでした。

 

いつも何でも忘れたり、覚えられないわけではありません。ただそんな瞬間が、前触れなく突然やって来るのです。しかしそれは、常に規則正しく忘れることよりも恐ろしいと、そのとき感じました。どんなミスをするかわからない自分に耐えられなくなり、脳の検査結果が出る日を待たずに仕事を辞めました。体調不良も限界まで来ていました。

 

■暗証番号で暗礁に乗り上げる

 

銀行のATMで暗証番号が突然思い出せなくなったときは、「認知症なのだから、これから私の記憶はどんどん消えていくんだ」と考えました。そこで、ネット上のパスワードを中心に80以上ある暗証番号のすべてを書き出した手帳を2セットつくりました。認知症なら、持ち歩いている間にどこかに置き忘れる可能性が高いと考えたからです。すでに新幹線の切符を何度もなくして大変な目に遭っています(車内に置き忘れたときは、東京ドームの近くの警視庁遺失物センターまで行くはめになりました)。

 

拾った人が見てもわからないように暗号化しようかとも考えましたが、自分がわからなくなりそうでやめました。この手帳の存在自体も忘れるかもしれいと考えて、家族に「ここに暗証番号が全部書いてあるから」とありかを伝えました。

 

そのころ、外出先で開いた財布が空だったことに気づき、現金を下ろすためにコンビニを探しました。使ったことのないATMで、何がなんだかわからず、結局お金を引き出すことができませんでした。新幹線の切符が発券機で買えず、駅員に来てもらって教えてもらうことも続きました。新幹線は乗り慣れていて、自分では正しく操作しているつもりなのに「初めからやり直してください」というメッセージが何度も出てくるのです。私の生活は音を立てて崩れ落ちていくように感じました。

 

私の対処法――キーワードは「余裕」

 

けれども、まず仕事のストレスから解放され、脳と体が苦しくなったらいつでも横になって休める生活になると、失敗したり混乱する頻度は減っていきます。2013年に抗認知症薬治療を始めると、体調にも症状にも改善を感じ、医師が言うようにどんどん進行するわけでも、記憶を失うわけでもないとわかると、心にも余裕が出てきました。それまでは、失敗するたびに病気の進行を意識して絶望的な気持ちになっていましたが、ただのミスだと冷静に考えられるようになると慌てふためくことも減り、好循環が起こったと感じます。

 

それからもう5年が経ちました。診断されたころは、「5年後って、話せるのかな、歩けるのかな」と本気で考えていましたから、今の身体は天から与えられた特別な宝物に感じます。ただただ有難いと思うばかりで、あちこちポンコツになっている部分は、それが日常になっていることもあり、ふだんは特別に意識しません。不便だとは思いますが、文句はありません。

 

たとえば、私は日常の買い物では常にクレジットカードを使い、現金を使うことはほとんどありません。100円のお菓子も臆せずカードで払います。たまに現金で払うとき、出した金額が間違っていることはちょくちょくあります。店員さんから指摘されるたびに、びっくりします。何の苦労もなく、ちゃんと正しく出した気でいるからです。

 

一度、目で100円玉と確認して出したコインが1円玉だと店員さんから指摘されて驚いたことがあります。財布の中ではたしかに百円玉だったので、「そんな錯視があるのか?」とも思いました。しかし普通なら手触りや重みで気づきそうなものです。視覚だけでなく、注意力や何かが正常に作動していないのかもしれません。

 

おつりの小銭の枚数を減らそうとして支払うと(60円の商品に110円出して50円玉でおつりをもらうように)、ほぼ毎回、店員さんに変な顔をされるか、より多くの小銭が返ってきます。そんな小細工は止めればいいのですが、ついやっては、苦笑いすることになります。

 

もし家族が一緒にいれば、「みっともないから止めてくれ」と言われそうですが、一人なので気にしていません。人に迷惑をかけるわけでもない。店員さんから怒られる心配もない。ああ、またやったかと自分を笑って終わりです。私は元々どこか抜けたところがあり、人に迷惑をかけない程度のトンチンカンな間違いなら病気をする前からありましたから。

 

小銭がいっぱいで何が悪い

 

ただもしこれで一度でも店員さんから傷つくようなことを言われたり、周囲から一斉に白い目を向けられたりしたら、次からは財布を開くたびに緊張するようになるかも知れません。嫌な体験をしないことは、とても大切に思えます。

 

スーパーでの支払いに時間がかかる人の専用レジをつくったらというアイデアを聞いたことがありますが、レジでカゴに入れる「レジ袋いりませんカード」のように、「ゆっくりやりますカード」(可愛いカメのイラスト付き)でもあったらどうでしょうか? でも、そんなものがなくても、世の中には年齢にかかわらず、病気や事故や障害でテキパキと正確に支払いすることが難しい人もいるのだと、誰もが知っているだけでずいぶん違うと思います。

 

「認知症の人は、求められた額のお金が出せず、お札で払うので、財布が小銭でいっぱいになります(見つけたら、すぐ病院に連れて行きましょう)」

そんなふうに書いてあるサイトの記事や本をよく見ますが、「小銭がいっぱいで何が悪い」と思ってしまいます。自分の意志で一人で出かけて、買い物ができるなんて素晴らしいことではないですか。健康な人と同じやり方やスピードを押し付けずに、やりたいようにやらせて頂戴よ、と思うのです。

(樋口直美「誤作動する脳――レビー小体病の当事者研究」第21回終了)

 

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