第12回 「万人に共通する悲劇は排泄作用」――出すこと(1)

第12回 「万人に共通する悲劇は排泄作用」――出すこと(1)

2018.5.17 update.

頭木弘樹(かしらぎ・ひろき)

文学紹介者。20歳のときに難病(潰瘍性大腸炎)になり、13年間の闘病生活を送る。

そのときにカフカの言葉が救いとなった経験から、『絶望名人カフカの人生論』(飛鳥新社⇒新潮文庫)を出版。その後、『希望名人ゲーテと絶望名人カフカの対話』(飛鳥新社⇒草思社文庫)、『絶望読書――苦悩の時期、私を救った本』(飛鳥新社)、『カフカはなぜ自殺しなかったのか?』(春秋社)、最新刊は『絶望図書館』(ちくま文庫)。

NHK「ラジオ深夜便」の『絶望名言ミニ』(毎月第2水曜日午後11時半)と『絶望名言』(毎月第4月曜日午前4時台)のコーナーに出演中。

 

悲劇とはみずから羞(は)ずる所業(しょぎょう)を敢(あえ)てしなければならぬことである。

この故(ゆえ)に万人に共通する悲劇は排泄作用を行うことである。

                                             (芥川龍之介『侏儒の言葉』)

 

 

|なぜ「出すこと」は書きにくいのか?|

 

 これまで「食べること」について書いてきた。

 今回は「出すこと」についてだ。

 これはさらに書きにくい。

 書き始めるにあたって、かなりためらった。

 それはそうだろう。自分の排便について、まして、漏らしたりしたことについて、自分で書いて広めるなんて、なんの因果でそんなことをしなければならないのか。

 むしろ、ひた隠しにすべきことだ。実際、そうしてきた。

 

 だいいち、読まされるほうだって、気まずい。

 トイレの個室に誘われるようなものだ。連れションならまだしも、大のほうは勘弁してくれという感じだろう。

「こんなことを大っぴらに書くなんて」と人格を疑いたくなるかもしれない。

 

 さらには、これから私に会う人たちは、みんな心の中で、「この人は漏らした人だ」と思ってしまうかもしれない。私は首から「漏らしました」という看板を下げて生きていくことになる。

 

 などと、考えれば考えるほど、書きにくくなる。

 ドアの前でためらうほど、入りにくさは増していくものだ。

 

 しかし、「食べること」だけ書いて「出すこと」を書かないという、何か腸閉塞を連想させるようなことも嫌なので、こうやって書き出してみた。

 

 そして、そうやって逡巡(しゅんじゅん)してみて、あらためて思った。

「出すこと」は、なぜそんなにも恥ずかしく、隠したくなることなのか?

 考えてみれば不思議だ。

 

 

|「出すこと」と「恥」|

 

 ルイス・ブニュエル監督の『自由の幻想』という映画に、こんなシーンがある。

 排泄はみんなでテーブルを囲んで堂々とし(テーブルの周囲には椅子ではなく便器が並んでいる)、食事はそれぞれ小さな個室(トイレのような)の中で隠れてするのだ。

 ようするに、食事と排泄の「恥ずかしさの逆転」だ。

 食べる姿には隠れたくなるような恥ずかしさがあり、排泄はみんながしている普通のことだ、というふうに通念にゆさぶりをかけているわけだ。

 

 たしかに、理屈で考えれば、食べることは欲望であり、欲望をむき出している食事のほうが恥ずかしく、排泄は生理現象だから恥ずべき点はないとも言える。

 実際、東アフリカのイク族は排泄する姿を見られても恥ずかしくないらしい。つまり、「出すこと」と「恥」の結びつきは、人間にとって絶対的なものではないということだ。

 

 しかし、大半の文化では、恥と結びついている。それもまた、意味のあることだろう。

 糞尿はきちんと処理しなければ、伝染病などのもとにもなる危険性もある。だから、糞尿を汚がり、避けようとする気持ちがあるのは理にかなっている。

 とすれば、汚くて避けたいものが、自分のお尻から出てくるのだから、それを恥ずかしいと思うのも、自然なことなのかもしれない。

 

 

|「出すこと」と「笑い」|

 

 昔、ドリフターズの加藤茶に「うんこちんちん」というギャグがあった。

『クレヨンしんちゃん』でも、ぶりぶり左衛門が人気で、「拭いてないお尻攻撃」が得意技だったりする。

『うんこ漢字ドリル』(文響社)という、例文がすべてうんこネタの漢字ドリルは、発売から2カ月で約150万部、現在までに300万部以上も売れる大ヒットとなった。

 下ネタは、いつの時代も人気がある。とくに小学生男子には。

 排泄は、それだけで、笑いを呼ぶ。

 子供にとっては、汚い臭いものが、自分や他人の身体から出てくるということが、不思議で、面白いのだろう。

 

 昔は、小学校で、男子が大のほうで用を足していると、上からバケツで水をかけられるということもあったらしい。

 それはいじめではなく、学校で大便をする者は、そういう目にあわされて当然という風潮があったのだ。

 

 私自身は、水をかけられた経験はないが、小学校で大のほうに行きたくなって、困ったことはある。

 休み時間にトイレに行けば、他の男子が何人かいるだろうから、大のほうに入れば、すぐにバレてしまう。

 なので、バレないようにするには、むしろ授業中に行くほうがいい。

 授業中、先生に「トイレに行ってきてもいいですか」と告げると、それだけでくすくす笑いが起きる。でも、これなら小のふりができる。小なら、嘲笑もそれだけ少ない。

 と、もうひとり、私の友達の男子が「あっ、オレも」と手をあげて、いっしょについてきた。

 まずいと思ったが仕方ない。二人でトイレに行って、小用をすませ、私は「少し授業をさぼってから戻るから、おまえは先に戻ってろよ」と言って、友達を先に教室に戻した。

 友達の姿が見えなくなってから、私はあわてて大のほうに行って、用をすませた。

 やれやれ、なんとか無事にと、ほっとして教室に戻り、扉を開けると、そのとたん、大爆笑が起こった。クラス中の男子も女子も笑っていた。

 一瞬、なんのことかわからなかった。さっきいっしょにトイレに行った友達が、「おまえ、うんこしただろ! なんか怪しいから、戻るふりして、ずっと見てたんだよ」と言って、私を指さして大笑いしていた。

「なんだよ! みんなだって、朝、家でうんこしてきただろ! 学校でして何がいけないんだよ! 同じことだろ! 笑うんなら、うんこしたことのないやつだけが笑えよ!」と言えたらよかったのだが、もちろん、そんなことは言えなかった。

 打ちのめされて、どうしたらいいのかもわからず、無言のまま、よろよろと自分の席について、顔を上げることもできなかった。

 その友達というのは、じつは今でも友達で、とても心のやさしい男だ。そういう男でも、小学生男子のときは、大便に関しては、こういうことをする。見逃せない、笑いのネタなのだ。

 

 大人になれば、もちろん大便に行く人がいても、何も思わないだろうし、笑う人もいない。

 しかし、うんこに何かおかしみがあるというのは、大人になってもずっと残っている感覚ではないだろうか。

 

 

|「出すこと」と「孤独」|

 

 食事には「みんなでいっしょにする」という面がある。そのことが、「食べること」の困難につながっているのは、前に書いた。

 排泄の場合は、そういう困難はない。

 幼い頃はともかく、ある程度大きくなると、排泄は小さな個室でひとりで行うようになる。

 かなり大きくなるまで親といっしょにお風呂に入る人でも、トイレのほうは、それよりずっと前に、ひとりで入るようになるだろう。

 みんなでいっしょに食事をしているときも、「ちょっと失礼」と席を立って、トイレという小さな個室に閉じ籠もり、みんなに隠れて、自分だけの排泄を行うのである。

 

 先に紹介したように、ルイス・ブニュエル監督の『自由の幻想』という映画では、それを逆転させていた。排泄はみんなでテーブルを囲んで堂々とし、「ちょっと失礼」と席を立って、小さな個室に入って、そこでひとりで隠れて食事をする。そして、また何食わぬ顔で(この場合まさに適切な表現だが)、みんなのところに戻る。

 そうやって逆転されてみると、あたりまえに思っていた、「排泄はひとりで隠れてする」ということも、なんだか不思議な気がしてくる。

 

 排泄は隠蔽され、当人以外、誰も知ることはない。

 何も問題が起きなければ、これはいちばんいい状態だろう。

 ただ、いったん何か問題が起きると、ひどく孤独なことになる。

 小さな個室の中で、自分だけの秘密に苦しむことになる。

 人に気づいてもらうことも難しい。

 

 

|「出すこと」と「介護」|

 

 ドラマや映画では、食べるシーンはたくさん出てくるが、排泄のシーンはあまり出てこない。

 そのことを不自然にもあまり思わない。

 縛られて閉じ込められていたようなシーンでも、脱水で弱ったりはしていても、糞尿にまみれていたりはしない。

 

 しかし、いったん、病気やケガや障害で動けなくなってみると、いちばん困るのは、排泄だ。

 食べるものは、まだ知り合いに買ってきてもらうことができる。しかし、下の世話となると、かなり親しい相手でも頼むのはためらわれるだろう。

 とはいえ、寝たきりで身動きがとれなかったりすれば、どうしようもない。こればっかりはずっとしないままでいることはできない。

 軽視していた排泄に、いちばん苦しめられ、それをどうするかで頭がいっぱいになってしまったりしてしまうのだ。

 我慢しきれずに出してしまって、それを自力ではきれいに拭いたりできない場合、そうとう悲惨なことになってしまう。

 

 人は生まれてきてしばらくはずっと漏らしている。大小便を漏らさない赤ちゃんなどいない。

 そして、歳をとると、また漏らすようになる。

 人生の最初と最後には漏らすのだ。

 でも、最初と最後では、ずいぶんちがいがある。

 赤ちゃんのとき、親に下の世話をされてつらかったという人はいないだろう。

 しかし、老人の場合は、家族や介護の人に、下の世話をされることに、屈辱を感じる人もいる。

 ケガや病気や障害で、もっと若くして、下の世話を人にしてもらう場合も、屈辱を感じる人もいる。

 下の世話をするほうも、赤ちゃんなら愛情を持って世話をできても、相手が大人や老人の場合は、なかなかそうもいかない。人は、成長していかないものに愛情を持ちにくい。

 

 排泄が月一回くらいなら、ずいぶん楽なのだが、そうはいかない。排泄は毎日のことだ。生きている限り、くり返される。今日は忙しいからなしでというわけにいかない。

 小はまだいいが、大は大変だ。

 20歳で病院に入院したとき、看護師さんがいかに下の世話で大変か、かいま見るだけでもかなり驚き、こんな仕事を引き受けてくれるとは、本当に天使としか思えないと感嘆したものだ。「清いものは常に汚れたものの中から生まれ出で、光り輝くものは常に暗闇の中から生まれ出る」(洪自誠『菜根譚』)という言葉を思い出したりもした。

 

 私の祖父は、私にはとてもやさしい人だったが、若い頃はお膳をひっくり返して怒るような暴君であったらしい。そんな人はマンガの中にしか存在しないと思っていたら、じつは身近に実在していたことに、なにより驚いた。

 幼い頃の父と祖母は、よく二人で抱き合って泣いていたらしい。

 そんな祖母が病気で寝込んで、下の世話を人にしてもらわなければならなくなったとき、意外にも祖父がそれをすべてやったそうだ。祖母が亡くなるまで、何年もずっと。

 通常なら、嫁の仕事とされていた時代だが、嫁にはやらせなかった。嫁というのが私の母だが、「あれは不思議だった」と言っていた。当時は、そういう男性はあまりいなかったようだ。

 祖母に屈辱を味わわせたくなかったらしい。そんなやさしさがあれば、お膳をひっくり返さなければいいわけだが、なぜ下の世話だけ、そこまでこだわったのか、よくわからない。

 下の世話には、お膳をひっくり返すような男の態度まで一変させるような、何かがあるということか。

 

 

|「出すこと」と「漏らすこと」|

 

「出すこと」と「漏らすこと」は、同じ排泄ではあっても、まったく異なる出来事だ。

「出すこと」の恥ずかしさは、「漏らすこと」によって頂点に達する。

 

 たとえば、会社に行って、自分の職場で、いっしょに働いている仲間たちの前で、大便を漏らしてしまったとしたら、どうだろう。それも、下痢をしていて、スカートならもちろん、ズボンでも裾から流れ出して、床一面に自分の便が広がってしまったとしたら……。

 そのときの自分の心境と、周囲の反応を想像してみてほしい。

 

 最悪としか言いようがないだろう。

 これが、嘔吐して、床一面に吐瀉物をぶちまけたのなら、まだましだ。嘔吐の場合も、かなり顰蹙(ひんしゅく)を買うだろう。臭気もきついし、始末するのも汚くて大変だ。病気が伝染する場合もある。しかし、病気のせいなら、やはり同情もされるし、飲み過ぎなどのせいなら激しく非難され嘲笑されるだろうけど、それでも会社を辞めることを考えるほどではない。

 しかし、大便だとどうだろう? 職場の床に自分の便が広がってしまったとしたら、それが病気や食あたりのせいで仕方なかったとしても、もうとても職場には戻れないのではないだろうか。もちろん、そのせいで辞めろとは言われないだろう。しかし、自分自身が恥ずかしくて、とても行けないのではないだろうか。そして、周囲も、どんな顔をして接したらいいのか、困ってしまうだろう。

 病気や食あたりなどのせいなら、周囲は同情してくれるだろう。責める人はいないと思う。しかし、以前通りに接してもらえるようになるまでは、そうとうな時間がかかると思うし、下手をするともう無理かもしれない。お互いにとってトラウマとなり、それはお互いが離れることでしか、なかなか逃れがたいものがあるだろう。

 

 なぜ、「漏らすこと」だけが、そこまで人に心理的なダメージを与えるのか。

 嘔吐は、まだしも「食べること」に属する。人前でやっても、なんとか許されるぎりぎりのところに位置する。

 大便を「漏らす」というのは、個室の中の秘められた行為であるべき排泄を、人前でやってしまうということだ。

 誰もが隠していることを、あらわにしてしまう。周囲の人間は、そのことからくる、いら立ちや怒りを心のどこかで感じるだろう。いたたまれなさもあるだろう。

 みんなちゃんとコントロールしていることなのに、それをしそこねたということへの軽蔑もあるだろう。あわれみも感じるかもしれない。

 

 そして、笑い。とくに小学生男子などの場合は、大便に行くだけでも大爆笑なのだから、漏らしたりすれば、ずっと語りぐさになってしまう。

 実際、高校のときに、学級委員で勉強もスポーツもできて容姿もすぐれている男子が、問題を起こした男子に注意をしているとき、「偉そうなことを言ったって、おまえ、幼稚園のときにうんこ漏らしたじゃないか!」と言い返されて、それだけでもう何を言えなくなってしまったのを目撃したことがある。

 そういうことは他にも何度かあった。

 幼稚園のときにうんこを漏らすくらいは、誰にでもありうることで、そんなに恥ずべきことでもない。にもかかわらず、「おまえは昔、うんこを漏らした」と言うだけで、完全に非のある側が、正しいことを言っている側を黙らせてしまうことができるのだ。

 うんこを漏らすって、なんておそろしいことなんだと思ったものだ。

 

 大人になって漏らした場合、周囲も笑うということはないだろう。むしろ、「笑えない」と感じるだろう。

 この「笑えない」ことをしてしまうというのも、当人にとって大変な屈辱である。周囲にとっても大変に気まずい。

 その人はもはや偉そうな態度をとることは難しいだろう。偉そうにすれば、口には出さなくとも「漏らしたことがあるくせに」と思う人がきっといる。少なくとも、「きっといる」と当人は感じる。

 その点では、おそらく大人も子供も大差はない。

 

 

|人前で恥をかくと、他人に服従しやすくなる|

 

 こんな心理実験がある。

 トイレから出てきた人に、ものを頼むのだ。お金を貸してくれとか、何か持ってきてくれとか。

 そうすると、別の場所で頼むよりも、はるかに高確率でOKしてもらえるのだ。

 なぜか? 排泄は恥ずかしいことであり、「人前で恥をかくと、他人に服従しやすくなる」のだ。

 

 この心理実験を知ったとき、中学生のときのことを思い出した。

 ある女子が、授業中にトイレに行った。限界まで我慢していたらしく、漏れそうになっているのがわかる歩き方だった。

 戻ってきてからも、授業中、ずっと恥ずかしそうにうつむいていた。

 その後の休み時間に、ある男子が、その女子の前の席に逆向きに座り、その女子を正面から見つめて、「次の日曜日に映画に行こう」と、デートに誘ったのだ。

 その男子はもともとその女子からまるで相手にされていなかった。高嶺の花だったのだ。それなのに、よりによってなんでこんなタイミングで誘うんだと、誰もが思った。

 ところが、その女子は、小さな声で、「うん……」と返事したのだ。

 それが聞こえた周囲のクラスメートはみんな驚いた。「なぜ?」と思った。何かとても不思議な感じだった。誰も声を出さなかった。

 今思うと、あのタイミングで、高圧的な態度で誘ったあの男子は、なんとも人間心理を心得ていて、おそろしい人物である。

 

 恥をかくと、服従しやすくなるということは、他の心理実験でも証明されているようだ。

 兵士が捕虜を辱めたり、看守が囚人を辱めたりという事件がよく起きるが、そうやって恥をかかせたほうが、囚人がおとなしく言うことをきいて、あつかいやすくなるということを、経験的に感じているからだ。

 支配欲を満たそうとする人は、自然と、人に恥をかかせようとする。イジメをする子供もそうだし、女性を辱めようとする男もそう。

 昔は、新入社員は宴会で恥ずかしい芸をさせられたが、それも恥をかかせておけば、あつかいやすくなるからだ。だから上司は、芸をやらないことを許さない。

「態度のデカいやつだ。恥をかかせてやる」などと陰口をたたいたりするのも、恥をかかせればデカい態度はとれなくなるということを、じつはみんなよくわかっているからだ。

「恥」というのは、じつにおそろしい。

 そして、排泄と恥は強く結びついている。

 

 

|恐ろしい告白|

 

 作家ミラン・クンデラの『出会い』(西永良成・訳 河出書房新社)という評論集に、こんな一節があった。

 

 一九七二年のことであった。わたしはプラハ郊外の、ひとに貸してもらったアパルトマンで、ひとりの若い娘と会った。その二日まえ、彼女はわたしのことでまる一日警察に尋問されていた。

(中略)

 彼女はごく若い娘で、まだ世間のことをさして知らなかった。尋問にすっかり心を乱され、この三日まえから、恐怖のあまり、彼女の腸がたえず動揺をきたしていた。ひどく蒼白な顔をし、わたしたちの話し合いの最中にも、たえず部屋を出てトイレに行った。──その結果、わたしたちの出会いはずっと、貯水槽をみたす水の音に伴われることになった。

 わたしはかなりまえから彼女を知っていた。彼女は知的で、機知に富み、みずからの感情を完全に抑制することができ、いつも完壁な服装をしていた。その服装は、立ち居振る舞いと同様、彼女の裸の姿をちらりとでもかいま見ることができるような、どんなちいさな隙も見せなかった。

(中略)

 トイレの貯水槽をみたす水の音がほとんど止むことがなかったが、わたしは突然、彼女をレイプしたくなった。わたしにはじぶんの言っていることが分かっている。彼女をレイプするのであって、彼女とセックスするのではない。わたしは彼女の愛情を欲していなかった。

 

 なんとも恐ろしい告白である。

 これを読んだだけで、クンデラを嫌いになってしまう人もいるかもしれない。私も下痢サイドにいる人間だけに、気分が悪くなって、この本をここから先、読めなくなってしまった。

 しかし、日頃は隙のない女性が、恐怖に怯えていることで、そして目の前で何度もトイレに行き、その水音まで聞こえていることで、彼は強烈な征服欲、支配欲のようなものにとらわれるのだ。

 誰もこの作家ほど正直に口にしないだけで、心のどこかには、そういう心理が潜んでいるのだろう。

 トイレに行って恥ずかしいというのは、とるにたらないことのようだが、決してそうとばかりも言えない。

 

(頭木弘樹『食べることと出すこと』第12回了)

 

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