第10回 食でつながれないと、どうなるか?──共食圧力(2)

第10回 食でつながれないと、どうなるか?──共食圧力(2)

2017.11.08 update.

頭木弘樹(かしらぎ・ひろき)

文学紹介者。20歳のときに難病(潰瘍性大腸炎)になり、13年間の闘病生活を送る。

そのときにカフカの言葉が救いとなった経験から、『絶望名人カフカの人生論』(飛鳥新社⇒新潮文庫)を出版。その後、『希望名人ゲーテと絶望名人カフカの対話』(飛鳥新社)、『絶望読書――苦悩の時期、私を救った本』(飛鳥新社)を出版。最新作は、『カフカはなぜ自殺しなかったのか?』(春秋社)。

現在、月刊誌『望星』(東海大学出版部)で、「落語を聴いてみたけど面白くなかった人へ」を連載中。
NHK「ラジオ深夜便」の「絶望名言」のコーナーに出演中(偶数月の第4日曜の深夜〔月曜午前〕4時台)。
新刊『絶望図書館』(ちくま文庫)が11月8日に発売に。

 

|自分と他人を結ぶ「通路」としての食事|

 

 安倍公房の『他人の顔』という長篇小説で、化学研究所の事故によって顔面にひどい火傷を負い「顔」を失った男が、「たかだか、人間の容器、それもほんの一部分にすぎない顔の皮膚くらいに、なんだってそんな大騒ぎをしなければならないのか」「人間という存在のなかで、顔くらいがそれほど大きな比重を占めたりするはずがない」と思ってはみるものの、「ぼくは、顔の比重が、そうした希望的観測をはるかに上まわるものであることを、いやというほど思い知らされることに」なり、顔が「自分と他人を結ぶ通路」であることに気づかされる。(『安部公房全集』第18巻、新潮社)

 

 それと同じように、私も食べることに困難が生じてみてはじめて、それが「自分と他人を結ぶ通路」だと気づいた。

 そして、その通路が使えないとなると、それがたとえ不可抗力の崖崩れのせいであったとしても、大変な圧力と非難を受け、排除されるということを思い知った。

 それは大きな驚きだったし、ただでさえ生きることが困難になったのに、社会生活までこんなに困難になっていくのかと、打ちのめされる思いだった。

 

|食べられないものをお供えされた仏様|

 

 たとえば、こういうことがあった。

 仕事の打ち合わせで、ある人と会った。難病なのは向こうも知っていた。私以外にも何人かいた。

 ちょっと高級なお店で、「いいお店でしょ」と相手の人が言うので、こちらも「そうですね」と、お世辞ではなく素直に返事をしていた。

 その人のおすすめの料理がもう頼んであって、それが出てきた。大きなお皿に入れてあって、みんなで自由につまむかたちだ。

 

 残念ながら、当時の私には食べられないものだった。このときは寛解期で、だから人と会ったりもできたのだが、食事には気をつけないと病院に逆戻りになってしまう。

 私が手を出さずにいるので、「これおいしいですよ」とその人が勧めてくれた。

 仕方ないので、「すみません。これはちょっと無理でして」と返事をする。難病のことは知っているので、向こうも「ああそうですか。それは残念です」と引き下がってくれる。

 

 ところが、少しすると、何事もなかったかのように、また勧めてくるのである。念のために、「病気で無理で……」とあらめて説明する。

 それでも、「少しくらいなら大丈夫なんじゃないですか」と妙にしつこい。そして、小皿に取り分けてくれて、私の目の前に別に置く。

 

 自分でつくった料理でなくても、おすすめの料理なら、少しだけでも味をきいてほしいという気持ちはわかる。

 しかし、これはそういうことではないのだ。その差は態度でわかる。

 下戸の人なら、「一滴も飲めない」と断っても、「まあまあ、ついでおくだけ」と言って、目の前に酒の入ったグラスを置かれた経験があるだろう。あれと同じだ。

 食べられないものをお供えされた仏様だ。

 

 それでも手をつけずにいると、周囲の人たちまで、「これ、おいしいですよ」とか、「ちょっとだけ食べておけばいいじゃないですか」とか言いはじめる。

 間を取り持つというよりは、かたくなに食べない人間にいら立っているのだ。

 私がその料理をほんの少しかじったからといって、それで他の人たちにとって、何かいいことがあるわけではない。私のお腹が少しダメージを受けるだけのことだ。

 しかし、みんなしてそれを求めるのである。圧力をかけてきて、非難する。

 じつに不思議なものだ。

 

 その人は、私にぜひ連載を頼みたいということを何度も口にした。そして、そのたびに、ちょっとだけでも食べろと勧めるのだ。

 私はついに食べなかった。

 そして、その後、連載の話も、来ることはなかった。

 

|食べる病人が、いい病人|

 

 私自身の体験だけでなく、病院に入院中、他の患者さんでも、同じような光景をよく目にした。

 お見舞いの人が、病状をよく理解していなくて、食べられないものを持ってくることがある。

 病人が「ごめんなさい。それは今、食べられなくて」と申し訳なさそうに言うと、「ああ、そうなんだ。それは気がつかなくて申し訳ない。別のものにすればよかったね」などと、もちろんお見舞客のほうも、自分がいけなかったというような言い方をする。「せっかく買ってきたのに、無駄にするな」なんてことを言う人はいない。

 

 ところが、にもかかわらず、しばらくすると、「ちょっとだけなら大丈夫なんじゃない?」とか言い出すのだ。患者さんが断っても、お皿に出したりして、「ここに置いておくから、もし気がむいたら、食べて」なんて言ったりする。

 病人のお見舞に来て、病人が身体によくないと言っているものを、なぜ無理にも食べせたがるのか、当時は不思議な気がしたものだ。

 

 食事に介助が必要な人の場合も、おいしそうに食べる人がよしとされるところがあり、それが圧力となっていた。そのため、無理しておいしそうに食べている人がけっこういた。ただでさえ身体が不自由でつらいのに、ついそんな演技までしてしまうのだ。

 介助は面倒なわけで、喜んでくれる人のほうが、食べさせがいがあって好まれるのは当然のことだが、それだけではない。やはり「自分が差し出したものを、相手が受け入れて食べるという関係の成立が大切」という面があるのではないかと思う。

 

「食」でつながることを求める圧力は、難病というハードルさえ超えるのである。それほど強力なのだ。

 相手が病気で食べられなくても、食べることを強いる。食べられない者は圧力をかけられ、非難され、そして排除される。

 

|偏食で結婚式がだいなしに|

 

 たんなる偏食でも、かなりの目にあう。

 私自身は好き嫌いはないのだが、友人にひどい偏食の男がいて、それだけのことでこんな目にあうのかと、はたで見ていても驚いた。

 彼は、海のものと山のものが食べられなかった。つまり、魚介類とか山菜とかすべてダメで、残るのはほとんど肉のみだった。

 

 子どもの頃から知り合いだ。子どもには似合わない、礼儀正しく、いい子で、友達の家に来るときにも、手土産を持ってきて、親にきちんと挨拶したりするので、友達の親からは最初はとても気に入られる。

 しかし、それも食事をするまでだ。

 

 たとえば、私の家に遊びに来たとき、うちの母親が巻き寿司を出した。すると、彼はまず海苔が食べられないので、海苔をはがす。そして、椎茸が食べられないので、それも中心から抜く。かんぴょうもダメだから抜く。酢飯についている魚粉もダメだから、それがついているところもとる。

 そして、酢飯と卵とキュウリとか、大丈夫なものだけを食べる。

 巻き寿司は無残に分解され、後には残骸が残る。

 私は、巻き寿司全体を断らずに、自分の食べられる部分だけは頑張って食べる彼に感心した。彼は頑張る男なのだ。

 ところが、うちの母親からはやはり不評だった。

 

 そんなだから、社会に出てからも苦労しているだろうとは思っていたが、就職後の彼は、いつも会社のことを楽しそうに話していた。

 上司がちょくちょく鮨屋に連れて行ってくれる。自分は鮨屋では玉子とカッパ巻きしか食べられないが、それでも上司の話をいろいろ聞くのが楽しいと。

 上司の話を本心から喜んで聞く部下なんて珍しいから、可愛がられていることだろうと思っていた。

 

 ところが、そんな彼が結婚するとき、私を含めた昔の友達も結婚式に呼ばれたのだが、上司が祝辞で「私は彼をよく鮨屋に連れていくのですが……」と話しはじめ、ああ、これが例の上司かと思っていたら、その上司の祝辞は「彼は玉子やカッパ巻きしか食べられません。好き嫌いがとても多く、どうやらとてもわがままに育たれたようで……」と続いていくのだ。

 そして、偏食はわがままのせいで、よろしくないという話が、延々と続いた。

 それを聞いている、彼の両親はどんどんうつむき加減になっていって、それまでの幸せそうな様子はまったく消えてしまった。

 

 そして、式の最後のほうで、花婿と花嫁がそれぞれの両親に、これまで育ててくれたお礼のメッセージを読み上げ、それに対して両親が返事をするところで、感動的に盛り上がるはずが、彼のお父さんは「私たちは決して息子をわがままに育てたわけではなく……」と始めてしまった。よほど無念であったことが、その口調からもうかがわれた。

 そうして、なんとも珍しい結婚式になってしまったのである。

 

 偏食はわがままとみなされやすい。

 病気とかアレルギーとかではないのに、ある食べ物が食べられないというのは、贅沢なことで、甘やかされて育ったり、わがままだからだというわけだ。

「好き嫌いの多いやつは、仕事もできない」などと言う人もいる。

 

 しかし、実際には、そうとばかりは言えない。私の友達の場合も、わがままとはまるで正反対の性格だった。いいやつだったし、勉強もできたし、仕事もできた。

 そんなことは上司もわかっていたはずだが、それでもそんなふうに難癖をつける。

 それほどまでに、「何かが食べられない」ということは、非難したくなるものなのだ。

 

 ある人が何を食べて何を食べなかろうが、他の人の知ったことではない。その人の料理を担当しているというのならともかく、そうでなければ、本来、そんなに不平を言う必要もないことだ。

 しかし、許せないのだ。放っておけないのだ。非難して、食べさせたくなる。

 

|食コミュニケーションと共食|

 

「食コミュニケーション」でネット検索すると、最初に電通のサイトが出てくる。

 他にもいろんなサイト、農林水産省や、地方自治体や、NPO、企業、一般の人のブログまでが、食とコミュニケーションの関係について大きく取り上げている。

「食事はたんなる栄養補給ではなく、コミュニケーションと密接な関係があるのだ」と。

 もちろん、「とてもいいこと」として取り上げているのだ。

 ひとりで食べず、みんなでいっしょに食べて、食を通じてコミュニケーションをして、「みんなでつながろう」というのだ。

 

「共食(きょうしょく)」のほうは、昔からある言葉らしい。

 大辞林の第三版によると、

「・神に供えたものを皆で食べあうこと。同じ火で煮炊きした食物を食べあうことにより、神と人間との、また神をまつった者どうしの精神的・肉体的連帯を強めようとするもの。(以下略)

 ・家族や友人などと一緒に食事を楽しむこと」

 

 最近は、この「精神的・肉体的連帯を強めようとする」という側面が注目され、「家族や友人などと一緒に食事を楽しむこと」が推奨されているようだ。

 電通総研では「共食縁」という言葉までつくっている。共食によって生まれる人と人とのネットワーク(縁)のことらしい。

 食は人と人をつなぐから、モテるなんてことまで言っている。

 

 いろいろな精神的な問題や病気が起きるのは、ひとりで食事をしているからで、共食をすれば解決すると主張する人もいるようだ。

 昔は家族で共食していたのが、今はだんだん個別に食事するようになったこと(個食と呼ぶらしい)が、さまざまな社会問題の原因だとする人さえいる。

 さらには、摂食障害のような、食そのものに関する病気や障害さえ、共食すれば治るという説もあるようだ。

 

「食コミュニケーション」でみんなとつながるのがいいことなのか、「共食」でさまざまな心や身体の問題が解決するのか、それは私にはわからない。

 きっと、いいことだし、解決するのだろう。

 しかし、少なくとも言えることは、病気や障害などで、食べることに困難のある人は、そこには参加できない。

 

 また、そこに参加したくない人も、いるはずだ。

 私は現在は、ほとんど普通に食事ができるので、そこに参加することができる。

 しかし、共食の輪からはじき出されるつらさを思い知った今、またそこに戻ろうとは思わない。バナナをすんなり受け取って、たちまちなごやかになれる人間には、もはやなりたくない。そこは踏みとどまりたい。

 

|会食恐怖症|

 

 そもそも、電通などが盛り上げようとするまでもなく、「食コミュニケーションをしろ、共食をしろ」という圧力は、これまで述べてきたように、もともと強烈に存在する。

 むしろ、そのことによって引き起こされている問題のほうが多いし、大きいのではないかという気もする。

 たとえば「会食恐怖」。

 ひとりだと何の抵抗もなく食事ができるのに、誰かといっしょに食事をしようとすると、異様な緊張感が走り、動悸や息苦しさ、吐き気などが生じる状態を「会食恐怖」と言うそうだ。

 

 精神科医の知人の話では、この状態の人は意外に多く、外来に毎日2人くらいは来るとのこと。病院に行くほどではないレベルの人はかなりいるということではないだろうか。

 共食を推進する側からすると、「ひとりで食事をとっていたから、そういうことになった」ということになるのかもしれない。

 しかし、食事がたんなる食事なら、こういう状態に陥ることもないだろう。食コミュニケーション、共食圧力こそが、こういう状態を生んでいるとも言えるのではなないだろうか。

 会食恐怖症の人のほとんどは、ひとりで食事をすることにはまったく恐怖を感じないそうだ。

 

 作家の奥田英朗と山田太一の対談で、奥田英朗がこんなことを言っている。

 

〈男たちの旅路〉でも桃井かおりさんと水谷豊さんがすき焼きを食べてて、「もっと食べろよ」「だれかといると私あまり食べられない。一人だと食べられるんだけど」というやりとりがあります。高校生の頃は何とも思わなかったのに、大人になって脚本を読み返すとこの箇所が胸に沁みる。僕も人と一緒にいると緊張して食べられないことがあるんです。

(奥田英朗×山田太一「総ての人が〈人生の主役〉になれるわけではない」

『ヴァラエティ』講談社)

 

 こういう人は少なくないのではないだろうか。

 ただし、この『男たちの旅路』で、「だれかといると私あまり食べられない。一人だと食べられるんだけど」と言っている桃井かおり演じる悦子は、自殺未遂をした女性なのだ。

 そういう女性が、共食が苦手で、個食を好むと、山田太一は描いている。そして、実際、それは偏見とばかりは言えないだろう。

 

「だから、個食はよくなくて、共食が大切なんだ」という言い方もできるだろう。たしかに、喜んで共食するようなら、自殺未遂なんてしないかもしれない。

 しかし、自殺するほどに敏感だからこそ、共食が苦手という言い方もできる。また、何らかの拒絶が、共食の拒絶というかたちで出ているのであって、共食すればすむということではないのかもしれない。さらには、共食圧力も、彼女を追いつめたひとつかもしれない。

 個食が先か、共食圧力が先か?

 

(頭木弘樹『食べることと出すこと』第10回了)

 

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