第9回 たかがバナナ、されどバナナ──共食圧力(1)

第9回 たかがバナナ、されどバナナ──共食圧力(1)

2017.11.01 update.

頭木弘樹(かしらぎ・ひろき)

文学紹介者。20歳のときに難病(潰瘍性大腸炎)になり、13年間の闘病生活を送る。

そのときにカフカの言葉が救いとなった経験から、『絶望名人カフカの人生論』(飛鳥新社⇒新潮文庫)を出版。その後、『希望名人ゲーテと絶望名人カフカの対話』(飛鳥新社)、『絶望読書――苦悩の時期、私を救った本』(飛鳥新社)を出版。最新作は、『カフカはなぜ自殺しなかったのか?』(春秋社)。

現在、月刊誌『望星』(東海大学出版部)で、「落語を聴いてみたけど面白くなかった人へ」を連載中。
NHK「ラジオ深夜便」の「絶望名言」のコーナーに出演中(偶数月の第4日曜の深夜〔月曜午前〕4時台)。
新刊『絶望図書館』(ちくま文庫)が11月8日に発売に。

 

たちまち「なごやかになれる人」は「なごやかになれない人」を非難し排除しがちだから怖いといったのだった。

(山田太一『月日の残像』新潮文庫)

 

|人と人の間には食べ物が置かれる|

 

「食べること」に問題が生じると、栄養補給に問題が生じる。

 それはわかっていたが、それだけではないということはわかっていなかった。

 栄養補給は自分にとっては大問題だが、他人にとってはどうでもいいことだ。靴の中に入っている小石のようなもので、歩きにくくなるのは当人だけで、他の人にはまったく関係ないと思っていた。

 だから、自分がうまく食べられないことで、他人との関係に問題が生じるとは思ってもみなかった。

 

 しかし、考えてみれば、これはとてもうかつなことだった。

 人と人が会うとき、その間には、たいていまず飲み物が置かれる。誰かの家に行けば、ほとんどの場合、相手はお茶やコーヒーなどを出そうとする。「どうかおかまいなく」と言っても、「すぐですから」などと言って、何かしら出そうとする。

 

 それは礼儀ということでもあるが、何もなしに面と向かうのは、きついということもある。間に飲み物があって、温かく湯気を立てていたり、冷たいグラスに露がついていたりすることが、面と向かう緊張を緩和してくれる。ときどき飲み物を口にすることが、気まずさを薄め、会話をスムーズにする。

 何も出さないということは、相手への拒絶を意味していることさえある。また、出されたものを飲まないことは、大変な失礼とされる。「敵(かたき)の家へ行っても口を濡らさずに帰るな」と言うくらいだ。

 

 さらに一歩進むと、「今度、一杯やろう」とか、「今度お食事でも」ということになる。

 飲食を共にすることで、関係を深めていこうとする。

 飲食なしで人間関係が深まることのほうが、むしろ珍しいのではないだろうか。

 大人に限らず、学校でも、昼食をいっしょにとるということが、仲間であることのひとつの証しとなる。誰もいっしょに昼食をとる相手がいなくて、ぼっち飯だと、それは親しい友達がいないことを意味することが多い。

 

『千一夜物語』を読んでいると、「わたくしたちの間には、すでにパンと塩とがあったことを、お忘れになりましたか」(佐藤正彰訳『千一夜物語』第2巻、ちくま文庫)というような表現がよく出てくる。私が出した食べ物をあなたが食べた、つまり、いっしょに食事をした間柄だということだ。

 日本でも「同じ釜の飯を食う」という言い方をする。

 英語でも「To drink of the same cup.(同じカップで飲む) 」という表現があるようだ。

 ヤクザの世界でも「盃(さかずき)を交わす」。

 こういう表現は、おそらく世界中にあるだろう。

 飲食が人と人をつなぐのである。

 

|食べないとは相手を拒否すること|

 

 そこで、もし、いっしょに一杯やったり、いっしょに食事ができないと、いったいどういうことになるのか?

 つなごうとするものを、断つことなる。

 下戸の人には、それがある程度、理解できるだろう。お酒を飲めないというだけで、ずいぶん人づきあいに支障をきたす場合があるはずだ。ただ、その場合でも、いっしょに食事をするという道が残されている。

 その「いっしょに食事」も難しくなると、じつに不思議なことだが、人とコミュニケーションをとることが難しくなる。

 

 頭で考えれば、コミュニケーションと食事には関係がない。むしろ、口に何か入れていれば、話しにくいくらいだ。箸やフォークなどを持っていたら、身振りもしにくい。

 にもかかわらず、食事とコミュニケーションは深く結びついている。

 それはなぜなのか?

 

 前章(第5~8回)で述べたように、「食べることは受け入れること」だからだろう。

 

 もともとは、生きていくことに不可欠な食べ物を相手の前に差し出すということが、最高のもてなしであり、それをありがたく受け取って食べることで、両者の関係が深まるということであったのだろう。生存のための食べ物を分け与え合う関係ということだ。

 

 今は、食べ物にそれほどの重みはない。しかし、食べることが受け入れることであるのは変わりない。

 相手が出した食べ物を、食べないということは、相手を拒否するということだ。

 親に不満がある子どもは、親が出してくれた食べ物を食べない。

 手にのせた食べ物を、動物が食べてくれたとき、人はそこに信頼を感じる。

 その場の空気に溶け込めないとき、人はその場のものを食べる気がしなくなってくる。

「料理はいっしょに食べる人によって味が違ってくる」と言うが、まったくその通りで、そのせいで、食べなかったりする。

 

 だから、食べない相手に対して、人はいら立ちや怒りを感じる。

 自分を受け入れてくれない拒絶を感じるからだ。

 緊張や遠慮で食べないのは問題ない。しかし、いつまでも食べないのでは、許せなくなってくる。

 ここが怖いところである。

 

|バナナという踏み絵|

 

 その怖さを見事に描いているエッセイがある。

 山田太一の「車中のバナナ」というタイトルのエッセイだ。

 私はこのエッセイが好きで仕方ない。11月8日に『絶望図書館』(ちくま文庫)という初めてのアンソロジーを出すのだが、そこにもぜひにとお願いして収録させてもらったくらいだ。

 

 山田太一が伊豆に用事で出かけ、鈍行で帰ってくる途中の出来事が書かれている。

 電車の四人掛けの席で、気の好さそうな中年男性がみんなに話しかけ、わきあいあいと会話が始まる。

 その男性が、バナナをカバンから取り出すのである。

 

 娘さんも老人も受けとったが、私は断った。「遠慮することないじゃないの」という。

「遠慮じゃない。欲しくないから」

(山田太一「車中のバナナ」『絶望図書館』ちくま文庫)

 

「あっ、そうなの」と言って、中年男性がバナナをカバンにしまえば、何事も起きない。

 しかし、こういう場合、たいていそうはならない。

 では、どうなるかというと、こうなる。

 

「まあ、ここへおくから、お食べなさいって」と窓際へ一本バナナを置いた。

 それからが大変である。食べはじめた老人に「おいしいでしょう?」という。「ええ」。娘さんにもいう。「ええ」「ほら、おいしいんだから、あんたも食べなさいって」と妙にしつこいのだ。暫(しばら)く雑談をしている。老人も娘さんも食べ終る。「どうして食べないのかなあ」とまた私にいう。

 老人が私を非難しはじめる。「いただきなさいよ。旅は道連れというじゃないの。せっかくなごやかに話していたのに、あんたいけないよ」という。

(同前)

 

 このくだりを読んだとき、私は本当に感激した。

 ああ、これだと思った。こういう目に何度も何度もあってきたのだ。それがじつに見事にとらえられている。

 ここがポイントだというところが、この短さの中に、ちゃんとすべて入っている。

 断っているのに、「まあ、ここへおくから、お食べなさいって」と窓際にバナナを置くところ。

「妙にしつこいのだ」というところ。

「せっかくなごやかに話していたのに、あんたいけないよ」と老人が非難しはじめるところ。

 そうなのだ。まさにこうなのだ。絶妙である。

 

 と言っても、なにが絶妙で、何がポイントで、何に感激したのか、さっぱりわからない人のほうが多いだろう。病気以前の私もそうだった。うまく説明できるかどうかわからないが、説明してみたいと思う。

 

|たちまち「なごやかになれる」人たちが怖い|

 

 山田太一は、バナナを食べなかった理由をこう書いている。

 

 貰(もら)って食べた人を非難する気はないが、忽(たちま)ち「なごやかになれる」人々がなんだか怖いのである。

(同前)

 

 当然ながら、たんにバナナの問題ではないのだ。

 

 中年男性がバナナを取り出したとき、それはたんに「おいしいものを持っているから、この人たちにもあげよう」というだけの気持ちだったかもしれない。

 しかし、食べ物を相手の前に差し出せば、自動的に「受け取る/受け取らない」という決断を迫ることになる。

 受け取れば、いやおうなしにそこには「相手やこの場の雰囲気を受け入れる」というニュアンスが生じる。

 受け取らなければ、「相手やこの場の雰囲気を受け入れない」というニュアンスが生じる。

 そのどちらもイヤでためらえば、自動的に後者になる。

 

 じゃあ、受け取っておけばいいじゃないか、という人もいるだろう。なにも、相手を不快な気分にさせることはない。どうせこの場だけのことなのだし、なごやかに過ごせればそのほうがいいじゃないかと。

 だから、バナナがあまり好きではなくても、お腹がいっぱいでも、多少は無理をしてでも受け取る人が少なくないと思う。

 

 しかし、そうしたくない人もいる。

 さらに、したくてもできない人もいる。

 はじめて会った者どうしで、すぐに同じ食べ物を食べ合う。互いを受け入れ合う。たちまち、なごやかになる。

 そういうことが怖いのだ。

 

 それのどこがいけないのかという人もいるだろう。互いに受け入れるほうがいいじゃないか。なごやかになるほうがいいじゃないかと。

 実際、このエッセイを読んで、そういうふうに思った人たちも少なくなかったようだ。

 じつは、このエッセイには後日談がある。

 このエッセイが、ある新聞のコラムで取り上げられた。

 そうすると、「なごやかになれる人たちがなぜ怖いのか」というハガキや電話があったというのだ。

 

|バナナがバナナでなくなるとき|

 

 なぜ怖いのか?

 その答えは、すでに前出の展開の中にあるだろう。

 機嫌よくついであげた酒でも、相手が飲まなければ、「おれのついだ酒が飲めないのか!」ということになる。最初はそんなつもりはなくても、そういう展開になる。

「食べることは受け入れること」だからだ。

 

 他の人はバナナを受け取って食べたのに、山田太一は受け取らなかったとき、中年男性は不快に感じ、受け取るように圧力をかけはじめる。

 このときから、バナナはたんなるバナナではなくなる。

 山田太一は「次第に窓際のバナナが踏み絵のようになって来る」と書いている。中年男性のことを受け入れるかどうか、このなごやかな場を受け入れるかどうか、という踏み絵になってくるのだ。

 

 このように、食べ物は簡単に、ただの食べ物ではなくなる。だからこそ、山田太一はバナナを受け取らなかったのだ。そして、実際、その通りのことが起きたのだ。

 圧力をかけられれば、ますます受け取れなくなる。そうすると、拒絶のニュアンスがますます高まる。悪循環だ。

 中年男性だけでなく、周囲の人たちも、自分たちへの拒絶とも感じるので、老人までが「あんたいけないよ」と非難をはじめる。典型的な展開だ。

 

 老人には「せっかくなごやかに話していたのに」それをぶちこわしたという、非難するだけの大義名分がある。しかし、ぶちこわしたのは、いったいどちらなのか、難しいところだ。

 矛盾した言い方になるが、山田太一がバナナを受け取らなかったとき、中年男性がそれをまったく気にせず、なんのわだかまりもなくカバンに戻していたとしたら、それなら山田太一は「バナナを受け取ってもよかった」と思ったかもしれない。

 

 もともとは、たんにバナナを出したというだけのことでも、このように、「たちまちなごやかになれない人間」に対して、圧力をかけ、非難するという展開になっていく。

 これは邪推かもしれないが、ハガキや電話で「なごやかになれる人たちがなぜ怖いのか」と問い合わせてきた人たちも、本当に疑問だったというよりは、こういうときにバナナを食べない人間が許せなかったのではないだろうか。だから、圧力をかけてきたのではないだろうか。

 こういうところが怖いのである。

 

 山田太一はハッキリ書いている。

 

 つまり、たちまち「なごやかになれる人」は「なごやかになれない人」を非難し排除しがちだから怖いといったのだった

(山田太一『月日の残像』新潮文庫)

 

 よくぞ書いてくれたと、胸のすく思いだった。

 

 念のため付け加えておくと、前に紹介したように、山田太一は子どもの頃に戦争で食糧難を体験している。

 映画の中で、貧しい一家が食事のときにじゃがいもの皮をむいて食べていたというだけで、「なぜ皮をむくのか、なぜ残したのか、と無念でならない」と、その映画を否定するほどの人だ。

 栄養失調に苦しみ、口に入るものはなんでも食べた過去が忘れられず、今でも出されたものを残せないという人だ。

 バナナを粗末にできる人ではないのだ。

 それでも、このバナナは食べないのだ。

 

|「難病で食べられない」も通用しない|

 

 でも、バナナを受け取らない理由が、「病気で食べられないから」だったらどうなのか?

 それだったら、自分たちへの拒絶とは感じないはずだ。病気のせいで、食べたくても食べられないのだから。

「今、お腹をこわしていて」くらいだったら、受け取らないための言い訳と思うかもしれないが、「難病で」とまで言えば、まさかウソだとは思わない。

 そうすれば、「そうなの。じゃあ、無理だね」とすんなり引っ込めて、非難も圧力もないのではないか。

 

 これも頭で考えれば、そうなるはずだ。

 ところが、そうはならない。不思議なことだけど、そうはならない。

 そうなる場合もあるけど、むしろ少ない。

 やはり、「車中のバナナ」のような展開になる。だからこそ、私はこのエッセイを読んで感激したのだ。

 

 私は病気をする以前は、お酒も飲めたし、好き嫌いもなかったし、珍しいものを食べるのも好きなほうだったので、人から何か勧められて断るということがあまりなかった。

 だから、こうした圧力や非難があることも知らなかった。

 しかし、それはひどく鈍感なことだったと思う。

 山田太一は、食べることに何の困難もないのに、こういうことに気づいている。さすがとしか言いようがない。

 

(頭木弘樹『食べることと出すこと』第9回了)

 

←第8回はこちら 第10回はこちら

 

トラックバック

http://igs-kankan.com/mt/mt-tb.cgi/1073

コメント

このページのトップへ