第8回 食べる哀しみ――食べることは受け入れること(4)

第8回 食べる哀しみ――食べることは受け入れること(4)

2017.9.08 update.

頭木弘樹(かしらぎ・ひろき)

文学紹介者。20歳のときに難病(潰瘍性大腸炎)になり、13年間の闘病生活を送る。

そのときにカフカの言葉が救いとなった経験から、『絶望名人カフカの人生論』(飛鳥新社⇒新潮文庫)を出版。その後、『希望名人ゲーテと絶望名人カフカの対話』(飛鳥新社)、『絶望読書――苦悩の時期、私を救った本』(飛鳥新社)を出版。最新作は、『カフカはなぜ自殺しなかったのか?』(春秋社)。

現在、月刊誌『望星』(東海大学出版部)で、「落語を聴いてみたけど面白くなかった人へ」を連載中。
また、NHK「ラジオ深夜便」の「絶望名言」のコーナーに出演中(偶数月の第4日曜の深夜〔月曜午前〕4時台)。

 

|社会的強者の飲み食い自慢|

 

 カフカは過敏で極端な例だとしても、「食べること」と「受け入れること」が関連しているのは、彼だけではないだろう。すべての人がそうなのではないかと思う。

 食べるということは、現実を受け入れるということであり、食べないということは、現実を受け入れないということであり、食べられないということは、現実を受け入れられないということである──そういう関連性がたしかにあると思う。

 

 嫌なことがあったり、嫌な相手とだったりすると、食事がのどを通らなくなるのは、交感神経が強く働いてしまうからだけなのだろうか。ショックなことがあると、吐いたりしてしまうのは、胃が消化している場合ではないと判断するからだけなのだろうか。

 不安で受け入れがたい現実を生きていると、食べることにも困難が生じがちだ。

「気に食わない」とはよく言ったもので、気に食わないときには、口も食わないのではないだろうか。

 

 落語の「百川(ももかわ)」という噺で、話し合いの結果、「ご無理でも、この具合をぐっと飲み込んでいただきたい」と言われ、「くわいのきんとん」を飲み込まされて、目を白黒させるというシーンがある。

「具合」と「くあい」を掛けてあるわけだが、「飲み込む」にはこのように、受け入れるという意味と、食べ物をのどに通すという意味がある。

 

 もりもり食べられるということは、それだけ現実を受け入れる力がある、適応できるということでもあり、社会的な強者でありたい人たちは、しばしば自分の飲み食いの力を自慢したがるものだ。「ステーキを3枚ペロリだ」「いや、オレなら4枚は軽い」などと、不思議な競い合いをしたりする。あたかもそれが社会的な能力と関係があるかのように。

 

 バリバリ働いてきた人が、胃腸の病気で入院してくると、病気での落胆以上の落胆と、強いいらだちを感じているものだ。

 お見舞いに来る会社の人たちも、「オレも暴飲暴食だから、気をつけないとな。昨日も食いすぎの飲みすぎで、なんだか胸焼けがするよ」などと、さりげなく(じつはあまりさりげなくでもなく)、自分の飲み食いの能力を自慢し、病人の食事が流動食だけだったりすると、いかにも嬉しそうに、「たった、これだけ? オレにはとても無理だなあ。おまえは偉いよ」などと勝ち誇る。

 

 食べることには、栄養をとるという以外に、たしかに何かしら象徴的な意味がある。

 

|殺人後の食欲|

 

 なかでも驚いたのは、人を殺した後には、食欲がわくということだ。

 

例えば、グリーンリーフが死んだ直後、リプリーが桃を食べたり、フレディを殺してから、チキンを食べたりする、これは数年前、私が読んだ警察の報告書を思い出したものだ。犯罪後の殺人者たちには、こうしたある種の過食症が見られたと多くの警官たちが言っていたのを思い出してね。葬式の晩餐みたいな感じだな:生が死へ復讐するわけだ。

ルネ・クレマンが語る「太陽がいっぱい」その2

http://green.ap.teacup.com/ledoyen/3788.html

 

 たしかに、葬式でも人は大いに飲み食いする。

 他人は死んだが、自分は生きているという、そういう興奮なのだろうか。

 生きる意欲が、食欲につながるのだろうか。

 

 今村昌平監督の映画『復讐するは我にあり』でも、主人公の榎津(緒形拳)が、人を刺し殺した後に、手についた血を自分の小便で洗い流し、その手で柿をもぎ取って、かぶりつく。

 このシーンに、震え上がり、また感動もした。実際にそういうものだからこそだろう。

 

 人は、がつがつ食べることに、下品さを感じることもある。

 おいしいものがあると聞けば、遠くまで出かけて行って食べることに、あさましさを感じることもある。

 生きる意欲というものに、怖ろしさを感じることもある。

 

 向田邦子脚本のテレビドラマ『冬の運動会』で、愛する人が急死して、悲しんでいる老人が、何も食べようとしない。泣くことさえできずにいる。

 まわりが心配して、無理にのり巻きをすすめる。ついにのり巻きを食べたとき、老人の目から涙がこぼれる。

 なぜ涙がこぼれたのか? のり巻きを食べて、心がゆるんだのか?

 主人公の青年は心の中で思う。

 

「じいちゃんは悲しかったのだ。生き残った人間は、生きなくてはならない。生きるためには、食べなくてはならない。そのことが浅ましく口惜(くや)しかったのだ」

『向田邦子シナオリ集Ⅳ 冬の運動会』岩波現代文庫

 

 生きていくというのは、大切な人が死んでも、お腹が空くということだ。食べ物が美味しいということだ。

 食べるということ、生きる意欲ということは、悲しいものでもある。

 

 山田太一の『月日の残像』(新潮社)の「食べることの羞恥」に書いてあったのだが、ラブレーの『ガルガンチュア物語』の中で描かれる、ユートピアとしての僧院には、台所がないのだそうだ。

 そのことについて、渡辺一夫が三十数年にわたって調べているそうだ(『渡辺一夫評論集』岩波文庫)。

 

「各種の葡萄酒の話、色々様々な食べ物や料理の話、それから糞尿を初めとする下(しも)がかった挿話で充(み)たされ」た(渡部一夫「やはり台所があったのか?」)ラブレーの物語の中で、そのユートピアの章だけは「食物や飲料に関する詳しい記述は一行も」なく「『飲む』『食べる』という動詞が二三見られるだけ」(同前)なのだそうである。

 そういうところが人間にはないだろうか。食べものから逃れたい、という思いが。食べなければ生きられないことの哀(かな)しみが。

山田太一『月日の残像』新潮社

 

 人は現実の中でしか生きていけない。

 現実を受け入れなければ、生きていけない。

 そこにもまた同じ哀しみがないだろうか。

 

|生きる喜びにあこがれはするが……|

 

 カフカの『断食芸人』のラストで、断食芸人が死んだ後の檻(おり)に、若い豹(ひょう)が入れられる。

 この豹は「必要なものをすべて、はち切れんばかりにそなえている、高貴な肉体」を持ち、「その喉元から、生きる喜びが強烈な炎となってほとばしり出る」のだった。

 この豹こそ、カフカがあこがれ、なりたくてもなれなかった、外界をまるで怖れることなく取り込み、生きる喜びを吐き出す、現実に見事に適応している強者だろう。

 

 しかし、あこがれ、なりたくてもなれなかった一方で、もしなれたとしたも、カフカは決して、そうなろうとはしなかっただろう。彼はあくまで現実に不安を感じ、拒絶し、食べようとせず、弱者であろうとした。とても頑固なまでに。

 断食芸人はその死に臨んでも、「光を失っていく彼の眼の中にもまだ、それでも断食を続けるのだという、もはや誇らしげではないにしても、断固とした確信が浮かんでいた」のだ。

 

 

 今回は、「現実」対「個人」のことについて書いたが、「食べること」は、人と人との間をつなぐもの、逆に言えば断つものとしても、とても大きな働きをしている。

 人間関係と食べることが、これほど深くつながっていることに、食べることが不自由になるまで、まったく気づいていなかった。気づいてみれば、それは怖ろしいほどだった。

 次回はそのことについて書いてみたいと思っている。

 

(頭木弘樹『食べることと出すこと』第8回了)

 

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