第7回 美しい糸で編まれてゆく時間

第7回 美しい糸で編まれてゆく時間

2017.8.07 update.

樋口直美(ひぐち・なおみ) イメージ

樋口直美(ひぐち・なおみ)

1962年生まれ。50歳でレビー小体型認知症と診断された。
2015年に上梓した『私の脳で起こったこと――レビー小体型認知症からの復活』が、日本医学ジャーナリスト協会賞を受賞。
思考力自体には問題はないが、空間認知などさまざまな脳機能障害のほか、幻視、自律神経障害などがある。
自分で手作りした下記サイトには講演動画や原稿や記事を集めてありますので、どうぞ。
https://peraichi.com/landing_pages/view/naomi

 

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 3週間ってどのくらい?

 

時間感覚が低下して起こったことは、特殊な記憶障害だけではありませんでした。それは、私の感情や性格をも変えました。

 

懐かしい友人と会う約束をし、「あと3週間だね。わくわくする」という連絡をもらったときです。うれしさよりもまず不安を感じました。友人と会えることは、もちろんうれしいです。でも、突然現れた「3週間」という言葉が、私の頭を占拠しています。

「え、3週間? 3週間ってどのくらいの長さ?」

脳は焦り、困惑し、すぐ疲れ、再会を思い描くところに行き着きません。

 

それなら時間のことなど脇に置いて、ただ再会の場面だけを想像すればいいじゃないかと自分でも思うのですが、それが難しいのです。濃霧のなかの未来を思い描こうとしても、具体的な像を構成できないと感じます。透明なキャンバスに絵を描こうとするような、つかみどころのなさです。

 

「……があったのはいつ?」と過去のことを自力で思い出そうすると、いつも脳をギューっと締めつけられるような不快感や苦しさを感じて疲れてしまいます。未来を想像するときは頭の締めつけ感はないのですが、自分でもなぜうまくいかないのか理解できず、途方にくれます。解けない方程式を解いているようです。そこに生き生きとした感情は生まれません。病気が進行して、感情が平坦になってしまったのかと青ざめたこともありました。

 

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なぜ「久しぶり」と思わないか、

なぜ別れ際が寂しくないか

 

その後、まめな友人から「あと半月」「あと1週間」と言われても同じでした。「だんだん近づく」という感覚は、スコンと抜け落ちています。前日の朝、カレンダーを見たとき、初めて「わぁ、明日なんだ。もうすぐだ!」と心が躍りはじめました。

(カレンダーは毎日何度も見ているのに、朝「おぉ、今日は今月最後の日なのか!」「今日から月が変わったんだ!」と驚くことがよくあります)

 

そして当日。「わ〜、久しぶり〜!」……とは感じないのです、まったく。もちろんうれしいのですが、「ついこの前も会ったね」と言われれば、そのまま信じてしまいそうです。気心の知れた旧友とは、会った瞬間に時間を飛び越える感覚は以前からありました。今は、それがどんな人にも起こります。

 

「またね」っと別れるときにも、寂しさを感じなくなりました。次に会えるまでの時間の長さを思い浮かべることがありません。昔から人との別れが苦手だった私は消えました。別れ際のウェットな私を知っている友人たちは、奇妙に感じるでしょう。

 

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時間は時計のようには進まない

 

今、特定の人を思い出すとき、その人と前回会ったのがいつだったのかは思い出せません。たとえ数年間会っていなかったとしても、長く会えずにいるという気がしません。今の気持ちは、最後に会ったときと何も変わっていないように思います。

 

「長く会わず、疎遠になってしまった」とも思わず、「ずっと会えないから寂しい」という感じも、あまりないのです。特に親しい人たちとは、ついこの前も会ったような感覚でいます。

 

それは、若いころに死別した友人に抱く感情ともちょっと似ています。亡くなって10年くらい経ったころ、生きているか死んでいるかはあまり意味がないことだと思うようになりました。同じ年数会わないでいる知り合いはたくさんいます。毎年毎年思い出す故人は、彼らよりも身近にいます。そこには、時計が刻むのとは違う時間があります。

 

第5回(「私が時間を見失っても」)で、「時間と記憶」を「ロープと写真」にたとえました。でも、こんなふうに考えていくと、時間はまっすぐでもなければ、一方向に流れるだけでもないなと気づきます。

 

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生き物のようにうごめき続ける私の時間

 

人間の時間は、記憶と切り離すことができません。それは、無数の糸が繊細に複雑につながり合い、どこまでも広がる網のようです。伸びたり、縮んだり、うねったり、ねじれたりしながら、常に新しい結びつきが生まれ、生き物のように変化し続けているように見えます。

 

私の手にしている時間は、私が誕生してから死ぬまでの限られた短い期間です。でもそれは、数え切れない他者の時間と複雑に結びついていて、私の時間が終了しても、この網は、途切れることなく広がり続けていくのだと感じます。

 

脳の故障で濃霧がかかり、私からこの時間の網はよく見えません。でもこの網は、たぶん安全なのです。「見えないと大変。困ったことが起こる」と考えると、不安にも心細くもなります。でも、故人も含めて無数の人やものや出来事と(意識にはのぼらなくても)つながっているのなら、そこから転がり落ちるような怖い目には遭わない気がします。私はたぶん、その上に身を委ねていればいいのです。

 

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「忘れた」と記憶障害は違う

 

若年性アルツハイマー病の友人、丹野智文さんから、こんなエピソードを聞いたことがあります。丹野さんは、なんでも忘れるわけではないのですが、ある朝、自分でコーヒーを淹れたことを忘れて、奥さんにお礼を言ったそうです。

「いいよ〜。……でも、淹れたのはあなたなんだけどね」

奥さんが無邪気に笑いながら言うので、丹野さんも笑顔になれたと。

 

今年3月23日、私にも似たことが起こりました。

夜遅く帰宅した夫のために、急いで夕飯を温め直していたときです。食卓を整えていると、チンと電子レンジが鳴りました。夫が、自分でおかずの一品を温め直してくれたのだと思い「ありがとう」と言うと、夫は「え、ぼくじゃないよ」と言います。

 

「誰でも無意識にすることは忘れるんだよ」と夫。私は納得せず、忘れたのは夫のほうではないかと言いましたが、否定されました。

 

このとき、記憶障害と「忘れた」は異質だと、私は思いました。「忘れた」のではなく、その「時間」が、存在していないのです。映画のフィルムの一部分を切り取ってしまったように。

「あったか、なかったか、よくわからない」のではありません。「そんなことは、絶対になかった!」と確信をもって言えるのです。

 

だから、健康な人の「忘れる」を基準に対応しても無効です。何度も言えば忘れない、本人が努力さえすれば忘れない、叱咤激励すれば思い出す……ということはないでしょう。

でも多くの場合、巧妙に時間を盗み取られた「被害者」が、周囲から責任を追及され、「加害者」扱いされてしまいます。すべての訴えは「症状」として片づけられ、「病識がない」というラベルを貼られるのです。

 

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美しい修復作業

 

先ほど私は「時間の網に身を委ねていればいい」と書きましたが、アルツハイマー病を患うと、網には日々小さな穴が空き続けるのですから、そんな気楽なことは言えません。その困惑、不便さ、不安は、想像を超えています(それでも若年性アルツハイマー病の友人たちは、メモやノートを駆使して会社勤めや講演活動を続けています)。

 

高齢で病気の進んだ方が、タイムトラベルをするように年齢を変え、その時代にすっかり戻ることがあります。最近、胃ろうからの適切な治療で劇的に回復された90代の女性(レビー小体型認知症)が、「家に帰りたい。帰って母を手伝いたい」と明確に話される動画を見て胸が詰まりました。初恋の話をする「20歳」のおばあさんの恥じらいを見たときには、人間って、なんて不思議で、素敵なんだろうと思いました。

 

網の穴が広がって、危険が身に迫ると、とても古い、けれども最も美しい糸(時間と記憶)がスルスルと寄り集まって、穴をふさいでくれているかのようです。

 

(樋口直美「誤作動する脳――レビー小体病の当事者研究」第7回終了)

 

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