第1回 はじめに――何が起きたのか

第1回 はじめに――何が起きたのか

2017.6.15 update.

頭木弘樹(かしらぎ・ひろき)

文学紹介者。20歳のときに難病(潰瘍性大腸炎)になり、13年間の闘病生活を送る。

そのときにカフカの言葉が救いとなった経験から、『絶望名人カフカの人生論』(飛鳥新社⇒新潮文庫)を出版。その後、『希望名人ゲーテと絶望名人カフカの対話』(飛鳥新社)、『絶望読書――苦悩の時期、私を救った本』(飛鳥新社)を出版。最新作は、『カフカはなぜ自殺しなかったのか?』(春秋社)。

現在、月刊誌『望星』(東海大学出版部)で、「落語を聴いてみたけど面白くなかった人へ」を連載中。
また、NHK「ラジオ深夜便」の「絶望名言」のコーナーに出演中(偶数月の第4日曜の深夜〔月曜午前〕4時台)。

 

 

健康であれば、わたしたちは器官の存在を知らない。

それをわたしたちに啓示するのは病気であり、

その重要性と脆(もろ)さとを、

器官へのわたしたちの依存ともども理解させるのも病気である。

ここには何かしら冷酷なものがある。

器官のことなど忘れようとしても無駄であり、

病気がそうはさせないのだ。

――シオラン(『時間への失墜』金井裕訳、国文社)

 

 

「ごはんを腹一杯食べて、そして、うんちを腹一杯出して」

 

 小学生のときにカセットテープに録音した祖父の声。

 祖父が田舎の家に帰るので、さびしくて、「おじいちゃんのいないときに聞くから、何かしゃべって」と頼んだのだ。まだ動画を簡単に撮れる時代ではなかった。唯一残っている祖父の声だ。

「そんなんじゃなくて、もっといいことを言って」と小学生の私は文句を言っている。ごはんとか、うんちとか、そんなくだらないことじゃなくて、と思っていたのを覚えている。

 しかし、今となってみると、祖父の言ったことは、さすがに年を重ねているだけあって、とても大切なことだった。

 その後──もう祖父が亡くなってかなり経っていたが──私はまさに、ちゃんと食べて、ちゃんと出すことができなくなってしまったのだった。

 

 

 

|食って出すだけ|

 

 上から飯食うて、下から出してる人間の製糞機(せいふんき)みたいな奴ばっかり

(『桂米朝全集 増補改訂版』第三巻、創元社)

 

『口入屋(くちいれや)』という落語の一節。

 とるにたらない、くだらない者ばかりということを、こういうふうに表現している。

 人間なんかたいしたものではない、人生なんかたいしたものではないと言いたいときに、「人間なんて、しょせん、食って出すだけの存在だ」というような言い方をよくする。

 あるいは逆に、人間や人生はくだらなくないと言いたいときに、「人間というのは、ただ飯を食って出すだけの存在ではないんだ」というような言い方をする。

 いずれにしても、「食って出すだけ」では、つまらないということだ。

 食べて出すということに対する軽蔑、軽視が、たいていの人の心の中にはある。少なくとも、それだけでは満足できないという気持ちが。

 しかし一方で、食べて出すことだけは、人生から除外できないという気持ちも、誰の心の中にもある。ある種の重視だ。

 人間の生活から、必須ではないものをどんどんそぎ落としていくと、最後に残るのは「食べる・出す・寝る」だろう。寝るは活動停止だとすると、活動に限れば、食べると出すが残ることになる。

 こればっかりは、そぎ落とせない。数日でも食べる・出すことができなくなれば、命にかかわる。

 だからこそ、「人間なんて、しょせん、食って出すだけの存在だ」という言い方にもなるのだろう。

 人間の活動の究極は、食べることと出すことにある、と言うこともできる。

 人間は食べて、ヒって、寝ればいいのです。

深沢七郎(『人間滅亡的人生案内』河出書房新社)

 

 深沢七郎は『楢山節考』や『笛吹川』などの小説を書いた作家。人生相談の本が一冊だけあって、それが『人間滅亡的人生案内』。

 人生にあれこれ悩んでいる人に対して、深沢七郎はこう答えている。「ヒって」というのは「排泄して」という意味。

 ここにあるのは、人間なんてそれだけのものなんだという虚無感であり、人間の活動の究極はこういうことなんだという根本の提示だ。

 しかし、それだけではないだろう。ここには力強さがある。苦しい状況でもなんとか生き残っていこうとする、たくましさが感じられる。

 食べて出すことには、生命力、生きる意欲、死なないしぶとさのようなものがある。ひと言で言えば、サバイバルだろうか。

 食べて出すことは、くだらないことであり、人間の活動の究極であり、サバイバルである。

 では、その食べて出すことが、うまくできなくなってしまったら、いったいどういうことになるのか?

 それをこれから、お話ししてみたいと思う。

 

 

|ただの下痢ではないと気づいたが……|

 

 下痢がつづいていた。

 2~3か月くらいつづいていた。

 でも、まったく気にしていなかった。

 普通に食べ過ぎたり飲み過ぎたりしていたし、気をつけないせいで、なかなか治らないだけだと思っていた。

 それでも、だんだんひどくなってくるし、さすがに長いので、少し気をつけて、消化のいいものを食べるようにしてみた。

 そうすると、少しはいいような気がする。しかし、下痢がとまるところまではいかない。

 それでも、少しはいいような気がすることに希望を見出して、そのまま節制を続けていた。

 すると、ある日、赤い便が出た。

 出血だった。

 愕然とした。下痢がどんなにひどくなっても、血が出るということはないだろう。切れ痔とかそういう感じではなかった。便に血がついているというのではなく、全体に血が混じっていた。

 これはおかしいと、さすがに思った。ただ事ではないと。

 そうなると、かえって病院に行くのがこわくなった。おそろしい病名をつきつけられたくなかった。

 なんでもないことを願いながら、さらに消化のいいものを食べるようにして節制をつづけていた。

 大学3年生の20歳のときだった。

 それまではとても健康だった。カゼくらいはひいていたが、それ以外にとくに大きな病気はなく、普通に元気だった。

 胃腸も丈夫なほうで、食べることに関して、何も気にしたことがなかった。お酒も飲んでいた。煙草も吸っていた。

 自分の身体をとくに意識したことがなかった。

 この「気にしたことがない」ということこそ、健康であることのいちばんの贅沢であることが、今ではよくわかる。

 病院に行くこともほぼなく、家族にも病院通いをしている者はいなかったため、病院というのは、遠い存在だった。

 誰かが行くところであり、自分が行くところではなかった。行くとしても、遠い先のことだと思っていた。

 するとある日、出血がとまった。普通の色の便になった。

 さらには、下痢も治まった。普通の便になった。

 どれほど嬉しかったか。

 心配したけど、大丈夫だったんだと、心底ほっとした。

 しかし、あとになって知ったことだが、これこそが潰瘍性大腸炎の典型的な症状だった。何もしないでも、いったん治ったりすることがあるのだ。なんともまぎらわしい。

 

 

|便器が血で染まる|

 

 また下痢が始まり、出血も始まった。

 普通に戻っていたのは1週間くらいだったと思う。

「前回、ちゃんと治った」という経験があるので、また自分で節制して治そうとした。前回治ったのだから、今回も治るはずだと思い込んでいた。

 ところが、今回は治らない。どう節制しても治らない。どんどん下痢はひどくなり、血便もひどくなる。

 もはや便よりも血のほうが多いような感じになってきた。トイレに行く回数もどんどん増える。出すものなどないのに、血だけが出てくる感じだ。

 便器が血で染まる。

 腹痛も増してきた。トイレで、身もだえて苦しむようになってきた。

 どう考えてもおかしい。

 書店で『家庭の医学』というような本を見てみた。

 恐ろしい病名ばかりが出てくる。

 20歳で死ぬのかと思った。

 とても病院に行く勇気がなかった。

 それでも、迷いながら、ついに病院に行ったのだが、医師から「どうしました?」と聞かれて、「下痢がとまらなくて」とだけ言った。出血のことは言わなかった。隠してしまった。

 当然、ただの下痢止めを処方されただけだった。

 でも、恐ろしい診断が出なかったことにほっとし、下痢止めに望みをつないだ。

 もちろん、効くはずもない。

 

 

|「うわっ!」と医師が叫んだ|

 

 その後、また別の病院に行ったが、やはり出血のことは言わなかった。

 医師から注腸検査を勧められた。

 どういう検査なのかと問うと、「カエルのお尻にストローをさして、そこから息をふーっと吹き込んで、お腹をパンパンにさせたことある? あんなふうにしてお腹をふくらませて、お尻からバリウムを入れて、レントゲンを撮るんだよ」と説明された。

 そんな検査はまっぴらだと思った。

 トイレの回数は数え切れなくなってきた。

 立ち上がれば、トイレに駆け込む。そのたびに、血の下痢。

 寝ていても腹痛で苦しむようになり、熱も出てきた。

 貧血もあったのだろう、朦朧(もうろう)としてきた。

 友達が来て、病院に連れて行ってくれると言ってくれたが、断った。

 そのまま症状はどんどん深刻化し、ついに意識がはっきりしなくなり、血便と腹痛と熱に苦しんで、うなり、壁を爪でかきむしるようになった。

 それを見た友人は、これはもう当人がどう言おうと、このままにはしておけないと、車で病院に連れて行ってくれた。

 例のカエルの医師のところだった。

 そのときでさえ、医師に、出血していることは言わなかった。

 医師は「赤痢じゃないだろうな」などと言っていたが、私の申告を怪しいと思ったらしく、「とにかくお尻の中を見せて」と言って、問答無用で、直腸鏡(外来で直腸を見るための医療器具)を肛門に入れて、中をのぞいた。

 とたん、「うわっ!」と医師が叫んだ。

「これは大変だよ。すぐに入院だから」とたちまち入院の手続きになった。

 出血を知られてしまい、もう自分の意志が尊重されなくなったことで、私はどこかほっとしていた。

 

 

|漏らしたことを隠す|

 

 入院の手順として採血もあった。

 私はもう自分には血が残っていないような気さえしていたので、「採血は勘弁してもらえませんか」と言ったが、そう言っている間にも腕から血を抜かれ、気がついたら、床が目の前にあった。

 気を失って椅子から倒れたらしい。看護師さんが支えてくれて、なんとか頭は打たずにすんだ。

 それくらい貧血になっていた。

 それでもまだ下血は続いていた。点滴を刺されたりしている間、トイレに駆け込むことができず、私はズボンの中に漏らしてしまっていた。厚手のジーパンだったので、幸い、気づかれずにすんだ。

 ちょうど病院のお仕着せに着替えないといけなかったので、私は「自分で着替えられる」と言い張った。

 パンツとジーパンの内側は血だらけだった。もはや便という感じはまったくなかったが、それでも私は漏らしたことを知られるのはイヤだった。

 まるめて、大きなビニール袋に入れて、床頭台(しょうとうだい。病院のベッドのそばにある引き出しや戸棚の付いた台)の中に隠した。

 

 

|鏡の中の幽霊|

 

 その後で、点滴をしたまま、点滴台(点滴を吊すための台。下にキャスターがついていて移動可能)を転がして、初めてトイレに行った。

 ベッドサイドに簡易トイレを置くかと言われたが、それは断った。このときは個室だったが、それでもイヤだった。

 トイレをすませて、手を洗おうとしたら、洗面台の上に鏡があった。そこに自分の姿が映った。

 ぎょっとした。びくりとなるほどだった。

 見たこともない、亡霊のような人間がそこに映っていた。

 病院のお仕着せは作務衣(さむえ)のような感じだったが、胸のところがはだけ、あばらがくっきりと浮かんで見える。頬はこけ、手は枯れた枝のようだった。

 もう夜で、病院のトイレの電気が暗めだったせいもあるだろう。しかし、驚いた。自分だということはすぐにわかったが、見たこともない自分だった。家で寝込んでいる間は、ずっと鏡を見ていなかった。こんなことになっているとは思わなかった。腕くらいは見えていたはずなのに、気づいていなかった。

 SF映画やホラー映画などで、外見に何か異変が起きて、鏡を見てぎょとするというシーンがよくあるが、自分が体験するとは思わなかった。自分が持っている自己イメージとまったくちがう姿を鏡の中に見るのは、なんとも不思議な感覚だった。

 これが今の自分なのだと言い聞かせなければならなかったが、難しかった。

 私は子供の頃から頬がふっくらしていて、お年寄りからはよく「お釈迦様みたいな顔だ」と言われた。中学生のとき「頭木くんも、あのほっぺたがなければねー」と女子が下駄箱のところで笑っているのを聞いてショックを受けたこともあった。

 それがいまやすっかり頬がこけてしまっているのだ。

 子供の頃から胸板が厚く、学校の身体測定ではよく「胸板が厚いねー」と医師から感心された。

 それが今や、あばらが浮き出て、幽霊画のようになっているのだ。

 鏡の前で茫然としたのを覚えている。

 そのとき26キロくらい体重が減って、6キロくらいは戻ったが、それ以上は今でも戻らない。

 20歳以降に知り合った人たちにとっては、私は痩せた人間であり、妖怪の一反木綿のように薄い人間だ。

 私自身も、自分はそういう人間だということを、今では受け入れている。いや、今でもどこかで「今の自分の姿は、本当の自分ではない」という思いがある。

 だから私は、病気になる前の中学や高校のときの知り合いに会うのがとても好きだ。「変わったねー!」と驚いてもらえる。それが嬉しい。

 本来の私のイメージは、もうその人たちの中にしか残っていないのだ。

 私は、自分が病人であるということを受け入れると同時に、身体的な自己イメージの変更も受け入れなければならなかった。

 今までの身体から、別の身体に魂を入れ替えられたような、そんな気さえしたものだ。

 

 

|受話器が重い|

 

 親を呼ばなければいけないと医師に言われた。

 しかし、親のいる郷里は山口県で遠く、私は三人の子供の末っ子で、遅くに生まれたので、親はもう歳だった。病院のある筑波まで出てくるのは簡単なことではない。

 それに、親を呼ぶなどというのは、当人に言えないことがあるという感じで、ますます不安が高まった。そういう意味でも、呼ぶことに抵抗した。

 しかし、どうしてもと、有無を言わさぬ感じで押し切られた。

 仕方なく、親に電話をした。病院の公衆電話からかけた。そばに椅子があって、すわって電話することができた。

 でも、電話はすごく困難だった。なぜかというと、受話器を持つのが重くて、休み休みでないと話ができなかったからだ。

 親と通話しながら、しばしば「ちょっと待って」と言って、受話器を持った右手を腿の上に置いて休ませ、それからまた頑張って持ち上げて、話を続けた。

 受話器の重さが気になったことのある人は、多分、ほとんどいないだろう。しかし、そのときの私には、鉄アレイのようだった。重くて手がぷるぷると震えた。

 それほどまでに筋肉が失われたことに初めて気づいた。

 私の通っていた大学は、中学や高校のように、体育の時間というのがずっとあり、私は嫌々ではあったが、「体操トレーニング」という授業を選択していた。ジムで筋トレするような感じの授業だった。1年の最初のときには、この授業が終わると、宿舎でぶっ倒れて何時間も寝てしまうほどだったが、三年生の頃には楽に感じるようになっていて、そうとう筋肉がついていた。いわゆる男らしい身体つきになってきて、多分、そういう年齢だったということもあるのだろう。それにともなって、これまでになくモテるようにもなってきて、人生にはこういう時期があるんだなあと興味深く感じていた。

 それがすっかり失われた。身体から筋肉も脂肪も、削り落とせるところはすべて削り落とされて、ジャコメッティの彫刻のようになった。血の気も失せ、水気も失せ、唇は乾いてがさがさになっていた。

 これは病院の外に少しは散歩に出られるようになってからのことだが、少しでも風が吹くと、本当によろけた。これにも驚いた。風でよろめくなんてことが本当にあろうとは。駅のホームの端には立てないと思った。

「今の自分は、紙飛行機がぶつかってもケガをしてしまうのではないか」と思った。

 

 

|カエルの検査|

 

 輸血が検討された。

 しかし、当時は、輸血のリスクが高く、まだ若いので、ぎりぎりまで輸血せずにねばってみようということになった。

 ただ、極度にタンパク質が失われているということで、人の血液からとったタンパク質という点滴を打たれた。ひどくねばっこい感じの落ち方をする点滴だった。池の澱(おり)のような色をしていた。

 他人の血の中のタンパク質が入ってくると思うと、あまりいい気持ちはしなかったが、なにしろ幽霊画のようになっているので、少しでも人間らしくなるには仕方ないと思った。

 まっぴらだと思っていたカエルの検査をすることになった。

 ひどい説明の仕方をする医師だと思っていたが、たしかに説明通りの検査だった。ただ、想像したほど苦しくはなかった。

 肛門から大腸の中に、バリウムと空気を入れられ、動く台の上に寝て、さまざまな角度に動かされ、台の上で自分もいろんなポーズをとるように指示され、何枚もレントゲン写真を撮った。

 なお、この注腸検査は、その後、1週間おきくらいに、かなりの回数行われた。あれほどイヤだった検査を、こんなにたくさんやることになるとは、これも病状が重くなったせいで、やはりもっと早く病院に行くべきだったと後悔した。

 しかし、のちに別の病院に移ったとき、このときのことを話すと、新たな医師は「そんなに撮っては危険だ」と怒っていた。どうやら、最初の病院では、その医師の論文だかのためにたくさん撮っていたようだった。

 医師がその病気に関心がないと、ぞんざいにあつかわれてしまうし、関心があると実験台にされてしまうこともある。難しいところだ。

 

 

|難病になって喜ぶ|

 

 検査結果は、明瞭だったようだ。

 間違いなく「潰瘍性大腸炎」だと言われた。

 聞いたこともない病名だった。以前に『家庭の医学』などを見たときにも、そういう病名は目にしていなかった。

「死ぬんでしょうか?」と聞いた。それが肝心なことだった。

「20年前くらいなら亡くなる方もいました。でも今は、潰瘍性大腸炎自体で死ぬ人はいません」

 これはとても嬉しい言葉だった。病気の両手が自分の首をつかんでいて、あとは力をこめて締められるだけという感じだったからだ。

 私がニコニコしているので、医師が「喜ぶことではありませんよ。潰瘍性大腸炎は難病ですから」と言った。

 また、「潰瘍性大腸炎自体で死ぬことはありませんが、潰瘍性大腸炎がもとで、別の病気になって、それで死ぬことはあります」と言われた。

 この不安は、今でもずっと続いている。

 

 

潰瘍性大腸炎とは|

 

[国が指定した難病] 「難病」という言葉、たんに難しい病気という意味で使われたのだと思ったら、そうではなかった。

 ちゃんと国が指定している難病というものがあるのだった。これにも驚いた。

「難病法(正確には「難病の患者に対する医療等に関する法律」)」という法律があり(この法律は平成27年1月1日に施行されたもので、私のときには「難病対策要綱」)、その定義によると、

「発病の機構が明らかでなく」

「治療方法が確立していない」

「希少な疾患であって」

「長期の療養を必要とする」

 というのが難病だ。

 その中でさらに、

「患者数が一定の人数(人口の約0.1%程度=およそ12万人強)に達しない」

「客観的な診断基準(またはそれに準ずるもの)が成立している」

 という2つの条件を満たしているものが「指定難病」。指定難病は、医療費助成の対象となる。

 難病の数は5000~7000だそうで、指定難病の数は306。

 患者数は、難病によっては全国で1人とか2人というものもある。とてつもない孤独だ。

 ただ、難病患者をすべて合わせると、指定難病だけで約95万人。本が100万部売れると、超ベストセラーで、身近に読んでいる人が必ずいるものだ。それからすると、難病者も、身近に必ずいると言ってもいいほどだろう。

 

潰瘍性大腸炎の患者数は17万人] 指定難病の数は56→110→306と増えてきているのだが、潰瘍性大腸炎は56のときから指定難病だった、いわば老舗の難病だ。

 潰瘍性大腸炎の患者数は毎年増加していて、1980年には約4400人だったのが、2014年には17万人を超えている。大変な右肩上がりで、これが企業の業績なら大喜びのところだろう。

 最も患者数の多い指定難病で、次がパーキンソン病。

 患者数が多くなったせいで、指定難病から外されるのではという懸念もあったほど。

 ちなみに、欧米ではもっと多く、日本の10倍程度の発症率らしい。

 

どういう病気なのか?] 名前の通り、大腸の粘膜に炎症が起きて、潰瘍ができる。

 どのくらい潰瘍ができるかは人によってちがい、大きくは「直腸炎型」「左側大腸炎型」「全大腸炎型」の3つに大きく分けられる。

 これは範囲の差。

「直腸炎型」は直腸(肛門とつながっている部分)にのみ炎症ができる。

「左側(さそく)大腸炎型」は大腸の半分くらまで炎症ができる。

「全大腸炎型」は文字通り、大腸全体に炎症ができる。

 直腸の長さは約20センチ。大腸全体の長さは平均1.6メートル。なので、直腸炎型と全大腸炎型では、そうとうな差がある。

 私の場合は、全大腸炎型だった。

 

大腸は「?」の形] 大腸というのが、お腹の中にどんなふうに収まっているか、私は病気になるまで知らなかった。

 大ざっぱに言うと、大腸は「?」の下の点をとったような形をしているようだ。もっと四角張っているが。

 右下腹部の盲腸から始まり、そこから上に向かって「上行(じょうこう)結腸」。

 お腹の上のところを右から左に「横行(おうこう)結腸。

 身体の左側に「下行(かこう)結腸」。

「S状結腸」につながり、最後が「直腸」。

 お腹の中心に小腸があって、その周りをぐるりと大腸がとりまいているのだ。

 炎症は直腸から広がるのが一般的で、そのため腸の半分くらいまで炎症が起きる場合は、「左側(さそく)大腸炎型」という名称になるわけだ。

 

重症度のちがい] 重症度は「範囲」だけで決まるわけではない。

 炎症がどれくらい激しいか、炎症が治まるかどうか、薬が効くかどうかなど、いろいろある。

 炎症が軽ければ下痢ですむが、炎症がひどくなると、血便になる。さらに、私の場合のように、もう血ばかりが出るような感じに。粘液もたくさん出ているらしく、粘血便と呼ばれる。内臓が溶けて流れ出ているかのようだった。

 

 潰瘍性大腸炎はいったんなると、もう一生、治らない。だから難病。

 ただ、炎症が治まることはある。これを「寛解(かんかい)」と呼ぶ。そして、また炎症が起きることを「再燃(さいねん)」と呼ぶ。

 寛解と再燃をくり返すのが一般的で、「再燃寛解型」と呼ばれる。

 私はまさにそれだった。

 炎症がずっと持続する場合もあり、「慢性持続型」と呼ばれる。

 

 同じ「再燃寛解型」でも、寛解してから再燃するまでの期間は、人によってかなり差があり、寛解期が10年以上続くなんて人もいる。一方、薬を減らせばたちまち再燃してしまう人もいる。

 同じ型とは思えないほど、差がある。

 私の場合は、薬を減らすと、再燃してしまうほうだった。長い寛解期を得ることはできなかった。

 

プレドニンで助かり、プレドニンで手術] 治療法は確立していて、薬もいろいろある。

 あまり副作用のない薬だけで寛解する人もいる。

 でも、たいていはプレドニン(副腎皮質ホルモン)という副作用の強い薬を使うことになる。

 さらには、そのプレドニンも効かない人もいて、そうするとさらにやっかいだ。全体の約3割は「難治」と言われる治療に難渋する症例とのこと。

 手術になる場合もある。

 

 私の場合は、症状が重かったので最初からプレドニンが使用され、幸いプレドニンが効いた。

 でも、13年間の療養の後、手術を受けた。

 それはプレドニンを使い続けたことによって、副作用の問題が起き、さらに使い続けることのリスクが高まってしまったからだ。

 今でもプレドニンを使っているが、手術のおかげで少量ですむようになった。

 

症状の重さに大変な差が] 直腸炎型で、副作用の少ない薬で寛解する人の場合、難病と言っても、ほとんど普通の人と同じ暮らしができる。手術などはありえない。

 そのため、患者会などでも、「難病呼ばわりされたくない! 潰瘍性大腸炎を難病の指定から外してほしい!」と主張する人がいるくらいだ。

 一方で、寝たきりになってしまうような重傷の人もいる。働くなどとても無理で、どうやって生活したらいいか困っているのに、難病の指定を外されたら、医療費の支払いもできなくなり、それはまさに命取りになる。

 このように、症状の重さに大変な差があるのが潰瘍性大腸炎の特徴のひとつだ。

 健常者の人にとっては、そこがかなりわかりにくい。身近に潰瘍性大腸炎の患者がいて、その人が軽いために、大変がっている潰瘍性大腸炎の人を、大げさだとかウソつきだとか誤解してしまう場合もある。

 私も何度か、「私の親戚にも同じ病気の人がいるけど、ぜんぜん元気だよ」などと怪訝(けげん)そうな顔をされたことがある。

 私の場合は、全大腸炎型で、すぐに再燃し、プレドニンをずっと使っていたので、重いほうだが、さらに重い人もたくさんいる。

 重いほうを上としたら、上の下か中の上くらいではないかと思っているが、これはいわゆる中流意識のせいかもしれない。病人にも、あまり軽く見られるのを嫌い、かといってあまり重いとも思いたくない意識があるものだから。

 

原因不明] 潰瘍性大腸炎の原因はわかっていない。

 自己免疫反応の異常という説が有力なようで、外敵から身を守るはずの免疫機構が、自分自身を攻撃してしまうわけだ。患者の中には「わたし、自分を責めるタイプだから……」などと言う人もいるが、それはまた別の話だろう(もっとも、性格との関連ということは言われていて、それについてはまた後で)。

 人に移ることはない。なので、人から移されたわけでもない。

 遺伝に関しては、何らかの遺伝的因子が関与していると考えられているが、潰瘍性大腸炎の患者の子供が潰瘍性大腸炎になったりするわけではなく、まだよくわかっていないよう。

 私の家族や親戚にも、潰瘍性大腸炎の人はまったくいない。

 ともかく原因不明なので、「あのときああしておけば、こんな病気にならずにすんだのに」と後悔することも難しい。誰のせいでもないから、誰を恨むこともできない。

 

誘因] ただ、「誘因」はある。

 カゼがきっかけでなる人が多く、私もインフルエンザがきっかけだった。

 だから、「あのとき、インフルエンザをこじらせなければ」という後悔はある。

 ちょうど友達が何人も泊まりに来ていたときで、まだ良くなっていないのに、海に泳ぎに行ったりしてしまった。

 友達が買ってきた「イカフライおかか弁当」というのが、とても消化が悪く、それ以来、下痢が始まったのも覚えている。

 だから、「たかがカゼ」という、健康な人間にありがちな軽視は、後悔している。「イカフライおかか弁当」への恨みもいまだにある。

 ただ、それは誘因にすぎないので、そのときにならなくても、別のときになっていたのだろう。

 

 

|食べることと出すことに問題が生じたときに、

私たちに生じるその他の問題|

 

 私に何が起きたかの概要は、以上のようなことだ。

 そんなに特別なことではない。下痢は誰でもするし、それがひどくなれば血が出てくるというのも想像できる。潰瘍という言葉も、胃潰瘍などで有名なので、「それが大腸にできるわけね」と思えば、なんとなく理解はできる。

 難病といっても、潰瘍性大腸炎の場合、理解不能、想像不能なほどの珍しい症状があるわけではない。

 では、そんな病気について、あらためて語る価値があるのか?

 私は「ない」と思っていた。

 ただ、病気になったことで、私はさまざまな困難や不自由を感じた。

 病気になったのだから、あたりまえだ。

 しかし、それは病気による生きづらさばかりとは言えなかった。

 たとえば、足を病んだとする。足が痛いとか、足をひきずるとかは、病気のせいだ。

 しかし、足を病んだために、別のことにも気づく。これまでは何の気なしに歩いていた道に、意外に段差があったり、でこぼこがあったり、つまずく箇所があったりすることに。

 それらは、足を病む前からあったもので、足を病んだせいで発生したものではない。足を病んだことで、はじめてそれらに気づいたのだ。

 そうした困難は、自分にだけ関係するものではく、他の人にとっても同じように存在する。

 もちろん、大半の人は、ほとんど意識しないだろう。しかし、意識はしていなくても、どこかでじつは困難を感じているかもしれない。その困難の原因がわからなくて、なおさら苦悩を深めているかもしれない。

 食べることと出すことに関しても同じだ。

 病気によって食べることと出すことが不自由になってみて、私は、他の健康な人たちも、食べることと出すことに、さまざまな困難を抱えていることに気づいた。

 そのことについてなら、少しくらい書いてみる価値はあるのかもしれないと思った次第だ。

 

 

|「弱い本」を目指して|

 

 とはいえ、私ひとりの個人的な体験が、どこまで他の人によって読む価値のあるものとなるかはわからない。

 できることなら、これが「弱い本」になってくれればと願っている。「弱い本」というのは、『弱いロボット』(医学書院)の著者の岡田美智男さんがインタビューで使っておられた言葉だ。

「読んでくださる方が新たな解釈をつけ加えてくれて、はじめて完結するような『弱い本』」(岡田美智男氏インタビュー「ロボットになぜ『弱さ』が必要なの!? ロボットと生き物らしさをめぐって」2017.02.01 SYNODOS)

 他力本願で恐縮だが、自分の体験の価値など、しょせん自分ではよくわからない。だから、わからないままにとにかく書いてみるしかない。書いて、尻餅をついて、誰かが通りかかってくれるのを待つしかない。

 

 なお、今回も少し引用したが、今後も文学作品などからの引用が多くなると思う。

 それはひとつには、私自身が闘病生活の中で、文学作品を支えとしたからだ。私は活字嫌いだが、それでも闘病中は文学をよく読んだ。文学だけは、とことん暗い人の心の奥底までを描いてくれる。「自分の気持ちがこの本には書いてある」と思えることが、とても救いとなった。

 また、もうひとつには、文学という普遍性のあるものを媒介とすることによって、私の個人的な体験にすぎないものが、より多くの人にも理解や共感しやすいものになってくれるのではないかと思うからだ。


(頭木弘樹『食べることと出すこと』第1回了)

 

 

 

 

 

 

 

 

第2回はこちら→

 

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