第5回 私が時間を見失っても

第5回 私が時間を見失っても

2017.6.09 update.

樋口直美(ひぐち・なおみ) イメージ

樋口直美(ひぐち・なおみ)

1962年生まれ。50歳でレビー小体型認知症と診断された。
2015年に上梓した『私の脳で起こったこと――レビー小体型認知症からの復活』が、日本医学ジャーナリスト協会賞を受賞。
思考力自体には問題はないが、空間認知などさまざまな脳機能障害のほか、幻視、自律神経障害などがある。
自分で手作りした下記サイトには講演動画や原稿や記事を集めてありますので、どうぞ。
https://peraichi.com/landing_pages/view/naomi

 

私は2015年春にとても調子がよくなり、当時上梓した拙著にも「ほとんどの症状が消えた」と書きました。そのためか、2年経った今でも「認知機能の低下はないんですよね?」と言われて絶句することがよくあります。

 

いま日常生活でいちばん困っているのは、名前すらない、特殊な「記憶障害」です。これは少し説明したくらいでは理解されません。認知症専門医からも「初めて聞いた」と驚かれる、時間にまつわる症状です。このことについて何回かに分けてご紹介します。


正方形;蜘蛛の糸写真.jpgのサムネイル画像のサムネイル画像のサムネイル画像時間とセットになったときにだけ現れる記憶障害

 

 

私の症状の多くは、幻視と同じように、出たり消えたりします。しかし消えたと感じたことがないのは、この連載の第2回目で紹介した嗅覚の低下と、時間感覚の低下に伴う記憶障害です。

 

時間感覚の低下は、アルツハイマー病の方と一部分は似ています。私は毎朝起きるとまず電子時計を見て、自力ではわからない日と曜日を知ります。次に予定を書き込んだカレンダーを見て、今日あること、今日するべきことを知ります。勤め先のない私のスケジュールはスカスカですが、「友人と会う」とか「不燃ゴミを捨てる」とかの予定は、このカレンダーが頼りです。今日が週や月の初めか終わりかも、カレンダーを見なければわかりません。

 

日と曜日がわからないのは、14年前にうつ病と誤診され、治療で悪化したときからだと記憶しています。朝確認してもじきに忘れますが、長年そうなので異常とも感じず、困ってもいません。書類を書くときやスーパーで加工日を見るときにだけは不便だと思いますが、スマホが瞬時に解決してくれます。ただ最近は、今が何月かを考えなければわからず、人前では少し焦ります。「巨大鯉のぼりのニュースを見たから、5月だ!」というように思い出します。

 

医療職の方から「あぁ、認知症の見当識障害ですね」と言われたこともありますが、私が困っていることは見当識障害とは違うのです。それは時間とセットになったときにだけ現れます。

 

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私には記憶をたぐるロープがない

 

私には、時間の遠近感、距離感がありません。来週も来月も半年後も、さらには1年後も、遠さの違いを感じません。過去も同じです。もちろん言葉の意味は理解できますが、感覚が何も伴わないのです。今からどのくらいの時間が経てば来週になるのか、来月が来るのか、見当がつきません。

 

見たことのない果物の名前を知っていても、大きさ、重さ、手触り、味、においが想像できないように、私には、過去から未来へと続いているはずの時間を感じることができないのです。時間を表す言葉は、意味を失っています。

 

時間の流れを考えるとき、私は、濃霧の中に一人で立っているような気がします。前に続くはずの未来も、後ろにあるはずの過去も濃い霧の中にあって見えないのです。霧の中には「ある」とわかっていますが、過去の出来事も未来の予定も自力では見えず、存在を感じることができません。いつも迷子でいるような、寄る辺のない感覚があります。

 

時間という1本の長いロープがあり、ロープには隙間なく思い出の写真がぶら下がっています。ロープをたぐり寄せると、写真は次々と手元に現れます。ロープには時間の目盛りがあり、人はその目盛りから一瞬でロープをたぐり、(遠くなるほど曖昧になるとはいえ)必要な記憶を自在に引っ張り出すことができます。

 

私には、そのロープがありません。

 

去年のある出来事をふと思い出し、「あれはいつのことだったんだろう」と考えるときには、そのときの会話、服装、風景、食べ物などを思い出します。そこから季節だけは推測できますが、何月かはわかりません。何年前かも明確にはわかりません。

 

手帳に書かれた単語を見れば、出来事は詳細に思い出せます。でも記録を見たり、人との会話やふとしたきっかけで思い出さない限り、過去の出来事は、存在していないかのように感じます。消えたわけではなく、思い出せないわけでもないのですが、濃霧の中にあるものは、そこから引っ張り出さない限り、目には見えないのです。一時期は、過去の出来事を書き出して時系列に把握しておこうと努力しましたが、うまくいかずやめました。

 

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しかし私には「今」がある

 

しかし、「今」だけは唯一実感でき、把握できます。今日が何日で何曜日かはわからなくても、月初めか月末かがわからなくても、「今」、今日は、確実にここにあり、私は、そこに確かに存在していると思えます。

 

見えない未来を展望することはできず、夢を描いたり、計画を立てることも難しいと感じます。時間配分ができず、変動する体調を予測できないこともあり、今、目の前にある仕事(主に書くこと)ひとつをとにかく全力でするという生活になりました(同時に複数のことをしようとすると混乱します)。終わったら、次に目の前に現れた仕事に全力で取り組みます。

 

それだけを繰り返して1年以上が過ぎました。目隠しをされて走る競走馬みたいだと思っていましたが、進んだ距離の短いこと……。すぐに疲れて頭痛が起きたり、脳が腫れて痺れるような違和感が出て、動かなくなるのです。よく止まりつつも、気持ちだけは全力疾走するかたつむりです。

 

「認知症の人は、今を生きている」という意味が、最近になってよくわかります。しかし、禅でいう「今、ここ」と、病気でなった「今、ここ」は何がどう違うのでしょうか? 修行経験のない私には、よくわかりませんが、病気になる前の「今」がブラウン管テレビの画質だとしたら、私の「今」には、4Kテレビの鮮やかさと明さがあると感じます。

 

脳を休めるために散歩をしながら、「若葉って、ここまで美しいものだっただろうか……」と日々驚いているあいだにも、咲く花は刻々と変わり、季節が移っていくのが見えます。

 

私が時間を見失っても、草花や木々は覚えていて、黙って毎日告げてくれます。それなら、このままでいいやと思うのです。

 

花の写真.jpeg

(樋口直美「誤作動する脳――レビー小体病の当事者研究」第5回終了)

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